第52話 眠り札を渡さない夜
助けになる物ほど、渡さない時の手が重くなる。
翌晩、朝霧亭の裏口にはまた人が並んだ。前夜より多い。眠り札を持つ者が二人、札のない者が四人。ユナは帳面を抱えたまま、顔を上げるたびに眉を寄せた。帳場の灯りの下で、栗色の三つ編みの影まで疲れて見える。
その列の中に、前に一度だけ助けた若い荷役がいた。香草包みを持ち帰った少年だ。今夜も目の下の色は悪いが、歩けている。対して、その隣の年嵩の女は立っているだけで膝が折れそうだった。
フィオナは木箱の中の眠り札を見た。もう残りが少ない。札が足りないのではない。札に紐づく「次も中へ入れる余地」が足りなくなり始めていた。
「この子には今日は渡しません」
フィオナが言うと、ミアが息を詰めた。淡い茶色の髪を雑に結んだまま、手にした白湯の椀を下ろす。
「でも前に来た子ですよ」
「前に来たからこそです」
声を強めないよう気をつけた。札は安心を渡す物だ。だから、渡したあとに受け止められないなら、かえって残酷になる。
サラは一度だけ少年を見て、それから年嵩の女へ視線を移した。
「札を持って戻る人は増やしたい。でも、今夜倒れる方を外したら意味がない」
少年は話を聞いていたのか、先に口を開いた。
「今日は、あの人を先にしてください」
そう言う声が少し上ずっている。強がっているのが見えた。フィオナはそれがありがたくもあり、苦くもあった。助かる側に順番を譲らせるのは、本来は宿の仕事だからだ。
「譲らせるために札を作ったんじゃありません」
フィオナは少年の前へしゃがんだ。
「今夜は香草包みを持ち帰ってください。帰る前に足だけ温めます。札は、次に本当に必要な夜に渡します」
少年は一度だけ唇を結んだ。それでも泣き顔にはならなかった。前より少しだけ、助け方の違いを信じている顔だった。
反対に、年嵩の女は札の意味も知らないまま、差し出された白湯を両手で抱えた。爪の間へ灰が入り、指先が切れている。見れば洗い場か炊き場の手だ。こういう手は、眠れないだけではなく、休めないまま翌朝の火の前へ立たされる。
ルド婆さんは香草包みを二つ用意した。一つは少年へ、一つは今夜通せない別の女へ渡すためだ。
「泊めないなら、持たせる物は増やしな」
ぶっきらぼうな言い方だったが、その通りだった。泊められない夜が増えるなら、宿は「中へ入れない人への仕事」を持たなければならない。
フィオナは木箱の中の札を数え直しながら、眠り札はもう単なる親切の印ではなくなったと知る。渡せば、その人の次の夜に責任が生まれる。だから渡さない判断もまた、宿の責任になる。
少年は帰り際、香草包みを胸へ押し当てて言った。
「次に来ても、また怒られませんか」
「怒りません」
フィオナは即答した。
「でも、毎回同じ助け方にはしません」
それが今の朝霧亭にできる、いちばん正直な言い方だった。泊める、待たせる、持ち帰らせる。そのどれも救いであり、そのどれも足りない。足りないまま、それでも道を切らないために、宿は今夜も木札を渡したり、渡さなかったりする。
眠り札を渡さない夜は、渡す夜より静かで、ずっと疲れた。だが、その疲れ方ごと、これからの宿の実務になるのだとフィオナは知った。
木札の数より先に、木札を受けたあとの夜の数を考える。そう決めた瞬間から、朝霧亭の仕事は少し厳しくなった。だがその厳しさがなければ、戻ってきた人へ次の入口を約束できない。フィオナは空になった木箱の底を撫でながら、優しさを減らすのではなく、優しさの形を選ぶ段へ入ったのだと理解した。




