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第51話 断る順番

 名が広がると、先に決めなければならなくなるのは、誰を通すかより、誰を今夜は通せないかだった。


 朝霧亭の裏口には、日が落ちきる前から三人がいた。眠り札を持っている御者、札はないが足元のふらつく洗い場女、そして巡礼姿のまま壁へ背をつけて座り込んだ若い男だ。裏口の灯りは柔らかいのに、その前へ集まる顔はどれも硬い。


 サラは帳場から出てきて、低く束ねた黒髪を払いもせずに三人を見た。目の下の薄い隈が、夕方の青い光で少し濃く見える。


「寝台は二つしか空かない」


 言葉にすると、それだけだった。だが、その二つに入らない一人を今から決めるのだと分かるだけで、空気は冷えた。


 フィオナは巡礼男の息を見た。浅い。けれど速すぎない。洗い場女は肩が上がっている。足首の冷えも強い。御者は眠り札を握りしめたまま、無理に背筋を伸ばしていた。誰も「自分を後にしてください」とは言わないし、言える顔でもない。


「札持ちを先に通すだけでは駄目です」


 フィオナが言うと、ユナは帳面を抱えたまま頷いた。栗色の三つ編みの先が胸元で揺れる。


「でも札がある人を毎回後ろへ回したら、札の意味がなくなる」


 その通りだった。眠り札は優先権ではない。だが、戻る入口として作った以上、ただの飾りにすれば次の夜から効かない。


 サラは三人の靴を見た。泥の乾き方、立ち続けた癖、片足へ重さを逃がす角度。朝霧亭では、顔色だけでなく、立っている足まで判断材料になる。


「御者は奥の小部屋。足の冷えが先に落ちる」


 次に視線が洗い場女へ移る。


「こっちは今夜倒れる。湯を先に入れて、そのまま短い寝台」


 残る巡礼男は、唇を噛んだ。怒るより先に、諦める顔だった。そういう顔が一番きついとフィオナは知っていた。責める相手もなく、自分が弱いせいだと思い込んで帰っていく顔だ。


「待たせます」


 フィオナは言った。


「帰すのではなく、まず白湯を」


 サラの目が細くなる。


「今夜は部屋がない」


「分かっています。でも、立ったまま返したら、道で崩れます」


 ユナがすぐに椅子を一脚持ってきた。背の低い古椅子だ。裏口脇へ置けば、座って湯を飲ませられる。寝台に通せない相手へ何も渡さないのと、座って帰せるようにするのとでは、同じ断りでも全く違う。


 巡礼男は震える手で椅子の背を掴んだ。


「泊まれないなら、いいです」


「よくありません」


 フィオナは静かに返した。


「今夜の部屋がないだけです」


 言い切ったあとで、自分の胸の方が少し痛んだ。言葉を整えても、泊められない事実は消えない。だが、泊められない夜に何も差し出さないままでいると、朝霧亭が今まで積んできたやり方そのものが薄くなる。


 ルド婆さんは湯気の立つ椀を持ってきて、巡礼男の前へ置いた。


「飲みな。熱すぎるから急ぐんじゃないよ」


 男は椀を受け取る時、指先をひどく震わせていた。たぶん空腹もある。たぶん眠れなさだけではない。そういう複数の崩れを、宿は全部抱え込めない。だが、抱え込めないから切り捨てるしかない、という顔もしたくなかった。


 その夜、フィオナははじめて「断る順番」を仕事として覚えた。誰を優先するかではなく、誰を今夜は中へ通せないか。それを決めるたび、湯も寝台も木札も有限だと突きつけられる。


 表の看板へ「眠れる宿」という名がついた分だけ、裏口では眠らせきれない夜も増える。その事実を見ないふりをしたままでは、第二部へは進めないのだと、フィオナは白湯の湯気の向こうで思った。


 白湯を飲み終えた巡礼男は、立ち上がる前に一度だけ裏口の敷居を見た。中へ入れなかった夜の人間は、たいていその木目を覚える。次に来るかどうかを決める境目だからだ。フィオナはその視線ごと覚えておこうと思った。断った数を忘れないこともまた、宿が名を持ったあとの仕事になる。

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