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第50話 眠れる宿の名前

 宿の名は、看板に書かれている文字より、誰がどう呼び始めるかで決まる。


 朝霧亭が「眠れる宿」と呼ばれたのは、華やかな評判が立ったからではない。神殿で朝の受け入れが遅れ、御者宿で夜番が回らず、施療小屋の働き手が帰れなくなった、その全部の端で、あの宿なら少し持ち直せると囁かれ始めたからだ。


 その呼び名をフィオナが最初に聞いたのは、市場へ香草を買い足しに出た帰り道だった。荷を背負った若い女が、連れへ小声で言う。


「今夜だめなら、朝霧亭へ行こう。あそこ、眠れる宿らしいよ」


 その言い方は、褒め言葉というより避難路の確認に近かった。だからこそ本当なのだろうとフィオナは思った。切羽詰まった人間は、役に立たない噂を抱えては歩かない。


 宿へ戻ると、サラは帳場で宿帳を閉じるところだった。短い黒髪の先へ夕方の灯りがかかり、夜番明けの疲れを隠しきれない横顔を細く見せている。フィオナがその話をすると、彼女は一度だけ目を細めた。


「勝手に名前が増えたか」


「嫌ですか」


「嫌じゃないよ」


 サラは短く息を吐いた。


「ただ、名前がつくと、その名前に見合う仕事をし続けなきゃならない」


 それはその通りだった。眠れる宿と呼ばれるなら、眠れない夜をただ優しく迎えるだけでは足りない。誰を先に休ませるか、どこまで引き受けるか、宿の朝を削りすぎないか。名前がつくほど、線引きも重くなる。


 その夜、ノアがまた眠り札を持って現れた。続いて、以前の御者も来た。さらに初めての巡礼女が、噂を聞いたと言って戸口に立つ。朝霧亭はもう、偶然見つかる宿ではなくなり始めている。


 実際、その夜は良いことばかりではなかった。裏口へ立った巡礼女は、宿の敷居を跨ぐ前から「本当に眠れますか」と三度聞いたし、御者のひとりは眠り札を持ちながらも「今夜はもう遅すぎるか」と諦めかけた顔をしていた。名前が広がるほど、期待して来る人も増える。期待は助けになるが、同時に宿の息も詰まらせる。


 ユナは新しい客の名を仮の帳面へ書きつけながら、いつになく真顔だった。結い上げた栗色の髪が少しだけ乱れているのは、帳場と台所を何度も往復したからだ。


「名前がついたせいで、断りにくくなったね」


「はい」


 フィオナも小さく答える。


「でも、名前がなければ辿り着けなかった人もいます」


 その両方が本当だった。眠れる宿という呼び名は、宿へ人を集める。そのぶん、どこまで受け入れ、どこで線を引くかの責任も重くなる。追放された夜に欲しかったのは、一晩分の布団だけだったはずなのに、いま自分は他人の夜の入口を引き受ける側へ回っている。その変化の大きさに、フィオナは少し遅れて震えた。


 ユナは新しく洗った香草包みを棚へ並べ、ミアは夜番表へ先休の木札を掛け直した。淡い茶色の髪を雑にまとめた後れ毛が、額に張りついている。ルド婆さんは寝台の綻びを縫いながら、ぼそりと呟く。


「名前がつくと、宿も腹を括るね」


 サラは表の灯りを一段だけ落とし、裏口側の灯りを残した。


「目立ちすぎるなよ」


「もう遅いのでは」


「遅いさ。だから余計に、やり方を雑にしない」


 名前がついた宿は、噂だけでは守れない。湯を渡す順番、眠り札の扱い、香草包みの量、部屋を空ける決断。そういう小さな仕事を乱さないことでしか、名は残らない。いま必要なのは、派手な勝利よりこの感覚なのだろうと、フィオナは思った。


 けれど、怖いからといって看板を伏せることはできない。名前がついたなら、その名前を汚さないよう働くしかないのだ。


 夜の支度をしながら、フィオナは窓の外を見た。街道の向こうに灯りが二つ、三つ揺れている。誰が来るのかは分からない。それでもここへ辿り着ければ、一晩くらいは持ちこたえられる。そう思ってもらえる宿になれたのなら、それはきっといまの宿にふさわしい悪くない名前なのだろう。


 ただ、名前が宿を守ってくれるわけではない。これから先は、来る人だけでなく、断る相手も増える。助けられた夜の数だけ、助けきれなかった夜も積もっていくかもしれない。フィオナは帳場の木目へ指を置き、温かい名がついたぶんだけ、冷たい判断も背負うのだと静かに受け止めた。

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