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第4話 先に壊れるのは働く側

 昼前の裏庭は、客に見せない宿の本音が集まる場所だった。


 湯を沸かし直す薪、洗い終えた布、香草を干す棚、使い古した桶。表の玄関から見えるのは、湯気の柔らかさと整えられた廊下だけだが、宿を本当に回しているのはこういう裏側だ。人の手が足りなければ、最初に崩れるのもこちらからだった。


 サラに呼ばれたフィオナは、香草干し場の脇に立っていた。蜂蜜色の長い髪を布で軽く束ね、袖をまくっている。借り物の仕事着はまだ少し大きかったが、その格好の方が神殿の見習い服よりずっと落ち着いた。


「ここだ」


 サラは干し棚と洗い場の間を顎で示した。人が二人並べばいっぱいになる狭い通路で、昼のあいだはあまり使われていない。風も通るし、壁際は陽が当たりすぎない。短い仮眠なら悪くない場所だった。


「衝立を一枚置いて、布を掛ければ、横になれます」


 フィオナが言うと、サラは頷いた。


「問題は、誰に最初に使わせるかだ」


 それは公平の話ではなく、持たせる順番の話だ。誰から先に崩れるか。誰を少し休ませると夜が保つか。そういう現場の計算は、フィオナのいた神殿でも、結局は誰かが静かにやっていた。


「ミアさんと、湯番のルド婆さんです」


 答えると、サラの眉がわずかに上がる。


「早いな」


「ルド婆さんは怒られると余計に動く人なので、先に休ませた方が夜まで持ちます。ミアさんは、昨夜一度戻りましたけど、今夜また削れます」


 言葉にすると、ようやく自分の見ているものが形になる。完全に治せるわけではない。だが、どこを先に休ませれば崩れ方が変わるかは、分かる。


 サラは腕を組んだ。


「お前、やっぱり変だな」


「良い意味ですか」


「まだ決めてない」


 即答で返され、フィオナは少しだけ口元を緩めた。こういうやり取りができるようになっただけでも、昨夜よりはましだ。


 その時、裏口からユナが駆けてくる。頬が赤い。走ってきたせいだけではない。


「サラさん、神殿から人が来てる」


 空気が少し変わった。


「誰」


「使いの下働きみたいな人。表で、夜勤補助の子を出せって」


 フィオナの指先が冷えた。こんなに早いとは思わなかった。自分を追い出した側が、もう埋め合わせを探しているのか。いや、探しているというより、足りなくなって初めて気づいたのだろう。


「断ったの?」


「若女将さんが足止めしてる。うちの子じゃないって」


 サラは短く息をついた。


「フィオナ、お前は表に出るな」


「でも」


「今はまだ、返す言葉を作ってない」


 それは命令だった。強い口調だが、守るためでもあると分かる。フィオナは唇を結んで頷いた。


 ユナがフィオナの袖を引いた。


「こっち。香草棚の奥なら表から見えない」


 三人で物陰へ寄ると、表の玄関のざわめきが少しだけ届く。男のきつい声。若女将の抑えた声。足音の苛立ち。内容は聞き取れなくても、向こうが余裕を失っているのは分かった。


 フィオナはその音を聞きながら、胸の奥がじくじく痛むのを感じた。ざまあだ、とは思えない。困ればいいと願っていたわけでもない。けれど、あの場所は自分を切ったその日に、自分のしていた仕事が埋まらないものだったと証明してしまった。


「……早すぎます」


 思わず漏れると、サラが横で低く言う。


「現場はそういうもんだ。切る側は軽く切るが、持ってた仕事は軽く消えない」


 その言い方に、フィオナは少し救われる。自分がしていたことは、誰にも数えられない雑用ではなかったのかもしれない。


 やがて表の足音が遠ざかり、ユナがほっと息を吐いた。


「帰った、かな」


「帰ったというより、今日は引いたんだろう」


 サラはそう言ってから、フィオナへ視線を向けた。


「追い返したのはうちの都合だ。あんたを守ってやる義理があるって話じゃない」


「はい」


「でも今、ここで働けなくなると困る」


 それは不器用な言い方だった。けれど昨夜までのフィオナなら、その不器用さの中身を読み取る余裕はなかったかもしれない。今は少しだけ分かる。必要とされることは、優しい言葉でなくても人を立たせる。


 ユナがにやっと笑った。


「つまり、いていいってことだよね」


「言い方が軽い」


「でも合ってる」


 サラは否定しなかった。


 その後、三人で裏庭の死角へ衝立を運んだ。乾いた布を掛け、足元へ薄い敷物を足し、昼の陽射しが強すぎる時間だけ布を二重にする。小さな仮眠場所。宿の表には出ない工夫だが、こういう場所こそ人を保たせる。


 ミアがそこへ案内されると、最初は遠慮していたが、横になった途端に目を閉じた。眠るまいとしているのに、身体が先に落ちていく。フィオナはその呼吸がゆっくり深くなるのを見て、静かに肩を下ろした。


「本当に眠った」


 ユナが感心したように囁く。


「眠れる場所があっただけです」


「それを作ったのが、あんたでしょ」


 まっすぐ言われ、フィオナは返事に詰まった。そう言い切られることに、まだ慣れていない。


 夕方、若女将が台所脇でフィオナを呼び止めた。年はまだ若いが、宿を回す声を持った人だ。


「一晩だけのつもりだったけど、続けて残れるなら助かるわ」


 その一言で、胸の奥の何かがじんわり温かくなった。追放された昨夜、もうどこにも居場所はないと思っていた。けれど今は違う。仮でも、暫定でも、ここには自分にできる仕事がある。


 同じ頃、神殿の施療室では、昼のうちに二人がへたり込んでいた。夜番の補助と洗い場の娘だ。どちらも大病ではない。だが、眠れていない身体は、ある線を越えると静かに止まる。


 その報せをフィオナはまだ知らない。


 ただ、知らなくても分かることはある。追放は終わりではなく、たぶん別の始まりだ。自分を切った場所が困ることだけではない。ここで今夜、誰かが少しでも眠れることの方が、ずっと大きい。


 裏庭の香草は、夕方の風に揺れていた。乾いた葉が擦れるかすかな音を聞きながら、フィオナは初めて、自分の明日の仕事を考えていた。

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