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第48話 眠り札を返す朝

 貸した札が返ってくる朝は、その人が一晩持ちこたえた朝でもある。


 翌朝、ノアは少しだけ晴れた顔で裏口へ現れた。目の下の色はまだ悪いが、昨夜より視線が真っすぐだ。掌には、木の眠り札が汗で少しだけ艶を帯びて乗っている。


「返しに来ました」


「ありがとうございます」


 フィオナは札を受け取った。軽い木片ひとつだが、戻ってきた時の重みは思ったよりある。返せる状態で朝を迎えた、という証でもあるからだ。


 ノアは少し迷ってから続けた。


「持ってるだけで、また来ていいって言われてるみたいでした」


 その言い方に、フィオナは胸の奥が小さく温かくなるのを感じた。宿がやっていることは、大きな救済ではない。けれど「また来ていい」「今夜も迷わなくていい」を物の形で渡せるなら、それはたしかに人を持たせる。


 ユナは返ってきた札を布で拭きながら笑った。


「次に貸す前に、角を少し削ろうか。手が痛そう」


 そんな小さな調整まで含めて、宿の仕事なのだろう。完璧な札を最初から作るのではない。使われ方を見て、次の夜に合う形へ直していく。


 その朝は、返ってきた札がひとつだけではなかった。別の御者も、昨夜渡した札をそっと置いていく。返す時、皆少し気まずそうな顔をする。何度も助けを借りる自分を恥じているのだ。だからこそ、返却が責められない朝を作る必要がある。


 ユナは戻ってきた札を並べ、角の擦れ方を見比べていた。よく握られた札は、同じ木でも手の温度を覚えたように艶が違う。使われた跡が、宿の夜の数を増やしていく。


「この札、右端だけ減ってる」


「親指でずっと撫でてたんでしょうね」


 フィオナが言うと、ユナは小さく笑った。


「お守りみたいに?」


「たぶん」


 そういう使われ方をするなら、ただの札では終わらない。返ってくる朝に木片の軽さしか感じないのではなく、「昨夜の不安を握らせていた物」が戻ると考えた方がいい。ならば、返却の受け取り方も雑にはできない。


 サラは返ってきた札を布袋へ入れながら、宿帳の脇へ小さな印を一つ増やした。昨夜の貸し出し数と返却数を合わせるためではない。どの夜に、どれだけ「戻ってこられた人」がいたかを見失わないためだ。


「眠れたかどうかなんて、本人にしか分からない」


 サラは袋の口を結びながら言う。


「でも、返しに来た朝があるってだけで、分かることもある」


「返ってきたら、それで十分です」


 サラがあっさり言う。


「返せる朝を迎えたってことなんだから」


 眠り札が返るたび、フィオナは「宿で休んだ夜」が一回きりの例外ではなくなっていくのを感じた。継続して来る疲れには、継続して戻れる入口が要る。その入口を宿が持ち始めたことが、朝霧亭をただの親切な宿ではなくしていた。


 返却の朝には、貸し出しの朝とは違う種類の表情がある。まだ完全には回復していないが、昨夜の自分よりは少しましだと知っている顔。ユナはその顔つきを覚えようとしていた。夜に受け取った時の怯え方と、朝に返す時の緩み方が分かれば、次にどの部屋へ通すべきかも見えてくるからだ。宿の経験は、帳面より先に人の顔へ溜まっていく。


 ノアが帰ったあと、ミアは返ってきた札を見てぽつりと呟いた。


「返しに来られるだけで、ずいぶん違いますね」


「違うよ」


 サラは即答した。


「消えたままの人を、こっちは何人も見てる」


 その言葉で、朝の空気が少し締まった。返却は単に律儀さの証ではない。宿が差し出した夜が、ちゃんと次の朝へつながったという確認でもある。だから朝霧亭は札を貸し、返ってきた札を数え、拭き、また次の夜へ回す。小さな循環だが、その循環が切れないこと自体が、この宿の強さになり始めていた。


 朝の光の中で、返ってきた札の木目は昨夜より少しだけ柔らかく見えた。人の手に握られ、朝へ持ち越され、また戻ってくる。そういう小さな循環が、この宿の信用を作るのだとフィオナは思った。

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