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第46話 戻らない昼の欠け

 朝の遅れが正午まで残るようになると、それはもう一時の不手際ではなく、その日全体の欠けになる。


 昼前になっても、神殿へ入れなかった者がまだ食堂脇の長椅子に残っていた。朝だけの預かりのつもりで始めた受け入れが、昼の支度へ食い込んでいる。ユナは台所と帳場を何度も往復しながら、何人をどこまで置けるかを数え直していた。


「昼を越えると、部屋の回し方が変わる」


 サラが短く言う。


「寝かせた方がいい人が、まだ帰れない」


 フィオナも分かっていた。夜の宿は、寝台を夜だけのものとして考えれば回る。だが朝の欠けが昼まで残ると、次に来る夜の客の分まで先に削ることになる。今やっているのは善意だけではない。宿の明日も巻き込む引き受け方だ。


 そこで朝霧亭は、初めて「昼をまたぐ者」と「昼までに返す者」を分けることにした。眠らせれば持つ人、椅子で待てる人、香草湯だけで凌げる人。残酷に見えても、そこを曖昧にすると全員が悪くなる。


 エナは昼過ぎに顔を出した。肩で息をしているわりに、歩幅は朝より整っている。神殿側でも、やっと少しだけ回り始めたのだろう。


「ごめん。まだ全部は戻らない」


「戻らないのは分かっています」


 フィオナは答えた。


「今知りたいのは、どこまで戻る見込みがあるかです」


 エナは唇を噛み、それから低く言った。


「二人分は戻らない。ひとりは高熱、もうひとりは帰してない」


 帰していない。つまり、壊れそうでも次へ渡していない。神殿はまだ「欠け」を止めるより、穴を隠して繋ぐ方を選んでいるのだ。


 昼餉の支度をしながら、フィオナはそれを重く受け止めた。朝の欠けは、放っておくと昼の欠けになり、やがて夜の欠けへ繋がる。朝霧亭がいま引き受けているのは、ただの待機場所ではない。日をまたいで崩れる順番の途中を、少しだけ切り分ける役目だ。


 その日の終わりに、長椅子へ残っていた荷役の男はようやく立ち上がれた。だが歩き出すまでに三度深呼吸していた。昼まで引きずった欠けは、それだけ人を重くする。


 彼が立ち上がるまでのあいだ、ユナは帳場で何度も指を折っていた。昼をまたいだ者が増えると、夕方の仕入れの勘定だけでなく、夜に入る寝台の順まで押される。ひとりを置けば、別のひとりの布団が遅れる。善意の積み重ねだけで宿が回るなら楽だが、朝霧亭が守りたいのは「今ここにいる人」だけではなく、「今夜ここへ来る人」でもあった。


 だからこそサラは、昼をまたぐ者へ薄い毛布を足しながらも、長居を美談にはしなかった。


「ここは止まり木じゃない。戻れるなら、戻す」


 その言い方は冷たく聞こえる。けれど、戻れる人まで抱え込めば、本当に戻れない人の場所がなくなる。フィオナはその線引きの重さを、昼の光の中でやっと実感し始めていた。


 食堂の卓には、朝の器とは違う重さが残っている。食べ終えた椀、半分飲み残した白湯、机へ突っ伏したまま寝てしまった若い御者。昼まで引きずる欠けは、空腹や不安だけではない。時間の感覚そのものを鈍らせる。だから、朝霧亭がやるべきことも「泊める」だけでは足りない。どこで切り上げ、どこから次の夜へ繋ぐかを決める作業が必要になる。


 食堂の奥では、ルド婆さんが昼の椀と夜の椀を分け始めていた。昼をまたいだ者へ夜の器を先に使えば、夕方に来る客の分が消える。逆に朝の器だけで回そうとすれば、椀を洗う手が追いつかない。こういう細かい足し引きまで、昼の欠けは侵してくる。宿の仕事は布団を貸すことだけではなく、次の支度を残して夜へ渡すことでもあった。


 フィオナはその様子を見ながら、神殿の遅れが単に患者の滞留だけを意味していないと痛感する。受け入れが遅れたぶん、宿の水も火も器も余計に減る。昼まで残る欠けは、見えないまま働き手の手間を食い、次の誰かの夕食や寝具を痩せさせる。だから「戻れる昼」と言った時、それは人の体調だけではなく、宿が夜を維持できるかどうかも含んでいるのだった。


 フィオナは空いた椀を片づけながら思う。宿の価値は、夜に眠らせることだけでは測れない。戻らない昼を、どこまで「まだ戻れる昼」に変えられるか。その技術が必要な時期へ、朝霧亭はもう入ってしまったのだった。

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