第44話 欠けた朝の引き受け先
ひとつの職場で朝が欠け始めると、別の場所がその欠けを引き受けることになる。
それは大きな出来事として来るのではなく、たいていは小さな連絡の遅れから始まる。朝霧亭にも、その朝はそうして来た。
夜明けを少し過ぎた頃、エナが裏口から駆け込んできた。頬が強張り、外套の紐も片方しか結べていない。息が上がっているのに、声だけ妙に低く抑えられている。騒げない知らせを持ってきた人の声だった。
髪は短く、いつもならきちんと耳へかけてある前髪が頬に張りついている。目元には化粧もなく、泣いたわけではないのに赤くなっていた。神殿から宿へ走ってくるあいだ、何度も立ち止まりそうになったのだろう。急げば早く解決する話ではないと知っている人ほど、足が重くなる時の顔だった。
「神殿の施療棟、朝の受け入れが遅れてる」
サラがすぐに顔を上げる。
「人手?」
「それも。あと、夜番の一人が帰れなかった」
フィオナの胸の奥で、前夜のリタの姿が重なった。帰れなかった夜番が一人いるだけで、朝の受け入れは芋づる式に遅れる。遅れは列を作り、列は疲れた人をさらに削る。そういう形を、彼女はもうこの宿で何度も見てきた。
「今、誰が困っていますか」
問うと、エナは即答した。
「子ども連れ二組。あと、昨日から熱を引きずってる荷役の男が一人」
誰が困っているかが分かれば、宿は動ける。だが問題は、その人たちが本来はこちらの客ではないことだった。朝霧亭は療養宿であって、施療棟そのものではない。受け入れを広げれば、そのぶん宿の朝が削られる。
ユナは帳場で指を止めた。淡い栗色の髪を後ろでひとつに束ねた横顔が、いつもより硬い。
「抱え込みすぎる?」
サラは少しだけ黙り、そして首を振った。
「全部は無理だ。でも、欠けた朝をまるごと見捨てるわけにもいかない」
その判断が出るのに、前より迷いが少なくなったとフィオナは思った。朝霧亭はもう、たまたま親切な宿ではない。何を引き受け、何を引き受けられないかを選びながら、それでも崩れた朝を少し戻す場所になりつつある。
まず引き受けたのは、待たせるだけで悪くなる者だった。子ども連れの片方には食堂脇の長椅子を空け、荷役の男には湯と薄い粥を先に渡す。施療そのものはできなくても、倒れないところまで持たせることはできる。
フィオナは粥を運びながら、男の顔を見た。目の下の色が悪い。昨夜まともに眠れていない顔だ。神殿で朝が欠けると、その欠けはすぐに街道へ零れる。そこを拾う宿がなければ、人はただ遅れて悪くなる。
子ども連れの女の方も、抱いた幼子を揺らす手が一定ではなかった。眠気と焦りで、揺らす速さが時々途切れる。そういう手つきは、列に並んで待たされるだけで一気に悪くなる。宿が今できるのは施療そのものではなく、その悪化を朝のうちに食い止めることだった。
「ここで待てます」
そう告げると、男は驚いたように顔を上げた。
「泊まりじゃないんだが」
「今は、待ちながら悪くならない方が先です」
言葉にした瞬間、フィオナ自身も少し驚いた。朝霧亭が扱うのは、もう宿泊だけではない。夜と朝のあいだに落ちる人間を、少しでも引っ掛ける役目まで持ち始めている。
忙しさは当然増えた。ミアは食堂と裏を往復し、目の下に残る薄い隈を隠す余裕もなく、ユナは帳場で出入りを整理し、サラはどこまで引き受けるかの線を引き続ける。それでも前と違うのは、誰も「これは宿の仕事じゃない」とだけは言わなくなったことだった。
欠けた朝には、引き受け先が要る。全部は救えない。だが、引き受け先がどこにもなければ、人は欠けたまま日中へ押し出される。朝霧亭がやっているのは、その押し出しを少しだけ和らげることだ。フィオナは空になった椀を受け取りながら、宿の役目がまた一段だけ広がったことを静かに受け止めていた。
親切だけで抱え込めば、今度は宿の朝が欠ける。だから線引きもいる。それでも、欠けた側を一度受け止める場所があるかないかで、人の一日はまるで違う。フィオナは、朝霧亭が少しずつ「泊まる場所」から「崩れた朝の受け皿」へ形を変えていくのを、怖さと手応えの両方で感じていた。
その怖さは、立派な言葉では薄まらない。今朝ここへ入れた三人のぶんだけ、昼に回す湯は減り、夕方に畳む布は増え、夜番の足は重くなる。宿が引き受けた欠けは、きれいに消えるのではなく、形を変えてこちらへ残る。その残り方まで含めて抱える覚悟がいるのだと、フィオナは奥歯を噛むように理解した。




