第3話 朝の小さな変化
朝の台所は、夜の詰所とは違う種類の戦場だ。
釜の蓋が鳴り、湯気が梁へまとわりつく。刻み台では包丁が絶えず鳴り、配膳台では温かい粥の器が次々に並べられる。働き手の足音まで、夜より一段速い。朝は眠れなかった人間にも平等に来るし、宿はそれに合わせて回らなければならない。
フィオナは台所の隅で、湯気に目を細めながら椀を拭いていた。昨夜、結局ほとんど眠れなかった。ミアの呼吸が落ち着いていくのを見届けたあと、自分も詰所の板壁にもたれてうとうとしたが、身体が緩み切る前に夜が明けた。
それでも、街道で倒れかけていた時よりはずっとましだった。温かい湯を飲み、乾いた布に包まれただけで、指先の感覚が戻っている。
「椀、そんなに磨いたら削れちゃうよ」
ユナが笑いながら言った。栗色の三つ編みが忙しなく揺れている。
「すみません。手を止めるのが落ち着かなくて」
「分かるけど、ここでは止まってる人の方が怪しくないから大丈夫」
明るく聞こえる言い方だったが、無理に場を軽くしているのも分かる。ユナの目元には少し赤みが残っていた。朝からずっと動いているせいだけではない。昨夜も遅くまで起きていたのだろう。
「ミアさんは」
フィオナが聞くと、ユナはすぐうなずいた。
「今朝、ちゃんと起きて立てた。まだしんどそうだけど、いつもみたいな顔色じゃなかった」
その一言に、フィオナは肩の奥の力が少し抜けるのを感じた。大したことはしていない。布を替え、火鉢を寄せ、香草を弱くしただけだ。それでも、朝の立ち上がりが変わる人はいる。
「良かった」
「うん。サラさん、何も言わないけど昨日より機嫌悪くない」
「それは、機嫌が良いんですか」
「あの人基準では、かなり」
ユナは真顔でそう言い切った。フィオナは思わず小さく笑う。笑うと、胸の奥に張りついていた緊張が少しだけ剥がれた。
その時、台所の入り口で短い声が飛ぶ。
「フィオナ」
サラだった。夜を越えた顔は、相変わらず隈が残っている。だが目の焦点は昨日よりましだ。黒髪はきっちり束ね直され、乱れたところがない。それでも立ち姿の端に、無理の名残がある。
「ミアを見てこい」
「私が、ですか」
「お前が一番変化に気づくんだろ」
ぶっきらぼうだが、昨夜より一歩進んだ言い方だった。疑っている相手には、仕事を任せない。完全な信頼ではないにしても、少なくともフィオナを「昨夜の通りすがり」からは外したということだ。
詰所へ行くと、ミアは壁際の長椅子に座っていた。顔色はまだ白いが、視線は落ちていない。朝粥の椀は半分ほど空いていて、手の震えも少し収まっている。
「おはようございます」
フィオナが言うと、ミアは気まずそうに笑った。
「昨日は……ありがとう」
「少し整えただけです」
「それでも、眠れた。久しぶりに、ちゃんと」
眠れた。たったそれだけのことが、働く人間には驚くほど大きい。フィオナはそれを知っている。だからこそ、神殿ではいつも言葉にしづらかった。眠れたことは、大広間で称えられる奇跡にはならない。
「今日は無理をしないでください」
「したくないんだけどね」
ミアは苦笑した。
「でも人がいない」
それもまた、よく知っている答えだった。働き手が少ない場所ほど、休めたからもう一日頑張れる、で繋がれてしまう。根本は何も解決していないのに。
フィオナは椀の残りを見て、それからミアの目元を見る。
「今夜、もう一度同じように整えます。その代わり昼の間に、少しだけ横になれる場所を作れないか、サラさんに相談してみます」
ミアは驚いた顔をした。
「そんなことまで」
「眠れたのに、また夜まで削ったら戻ってしまうので」
そう口にすると、自分でもずいぶん当たり前のことを言っていると思う。だが、当たり前のことほど忙しい場所では抜け落ちる。
詰所を出ると、廊下の向こうでサラが客の荷を運んでいた。重い木箱を抱える姿に隙はないが、右肩だけ少し上がっている。夜の後半で無理な持ち方をしたのだろう。
「ミアさん、少し楽そうでした」
「そうか」
「昼のあいだに横になれる時間を作った方がいいです」
サラは箱を置き、フィオナを見た。
「言うのは簡単だ」
「はい」
フィオナは素直にうなずいた。
「だから、どこを詰めれば少しだけ空くか、一緒に見ます」
返事はすぐには来なかった。サラは何かを測るようにフィオナを見る。その視線に、昨夜の警戒だけではないものが混ざっていた。値踏みだ。役に立つかどうかを見る視線。ようやくそこまで来たのだと分かる。
「……昼前に裏庭へ来い」
「はい」
「香草干し場と洗い場の間に死角がある。そこが使えるかもしれない」
それだけ言って、サラはまた箱を持ち上げた。背を向けられてから、フィオナは小さく息をつく。完全には拒まれていない。それだけで、胸の奥に温かいものが少し残った。
その頃、神殿では別の朝が始まっていた。
洗い場の湯替えが遅れている。夜番の補助が起き上がれない。施療室へ運ぶ布が足りず、朝一番の祈祷までに整うはずの部屋が整わない。どれも一つ一つは小さい乱れだ。だが、小さい乱れはまとめて現れると、組んでいた順番そのものを狂わせる。
フィオナはまだそのことを知らない。
ただ、知らないままでも感じていた。追放された場所から遠ざかったのに、胸のどこかがずっと重い。それは未練というより、自分がやっていた仕事が、たぶん誰にも仕事だと見なされていなかった悔しさだった。
台所へ戻る途中、湯気の向こうでユナが手を振った。
「フィオナ、朝粥の残りあるよ。ちゃんと食べないと、今日はあんたが倒れる」
その言い方に、フィオナは少しだけ目を丸くする。心配されるのは久しぶりだった。
「……はい」
返事をしてから、今度はほんの少しだけ自然に笑えた。
街道の夜を越えて、初めて迎えた朝だった。まだ何も取り戻してはいない。けれど、ここでなら働けるかもしれないと、ようやく思えた朝でもあった。




