第39話 帰れない夜番
夜番が長引く日には、眠れない客より先に、帰れない働き手が出る。
その晩、裏口へ来たのは泊まり客ではなく、隣町の施療小屋で夜番をしている女だった。名はリタ。年は三十前後、髪は灰がかった茶色を後ろで低く結び、濃い隈を化粧もせずに抱えたまま立っている。外套の肩へ乾いた白い粉が乗っていた。石灰か、古い寝台の埃だろう。施療の匂いより、片づけの匂いが強い人だった。
靴の先には、乾いた泥の上からもう一度跳ねた黒いしみがある。行きより帰りの方が足場の悪い道を急いだ人の汚れ方だった。裾にも、冷えた草を払った筋が二本ついている。フィオナは、その筋を見ただけで、リタが一度どこかへ座り込んでから立ち直したのだと分かった。立ち止まってはいけない夜ほど、人は座った形跡を隠せなくなる。
「一晩だけ、椅子でも貸してもらえませんか」
そう言った声はかすれていた。願うというより、音を出すためだけに喉を使っているような細さだった。
サラは一歩前へ出て、リタの足元を見た。泥の跳ね方が片側だけ深い。どちらかの足を引きずっている。
「椅子じゃなくて部屋を使いな」
「でも、朝には戻らないと」
「戻る前に倒れたら意味がないよ」
リタはその言葉にすぐ頷かなかった。帰れない働き手は、休みたいのではなく、休んだ責任を先に恐れる。フィオナはそこが客と違うと思った。客は「迷惑でないか」を気にするが、働き手は「穴を開けた自分が悪い」と先に考える。
フィオナは近づいて、濡れた外套の裾を受け取った。布地は冷たく重い。冷えより疲れが勝った人の服は、雨より先に身体の熱を失っている。
袖口へ指を通した時、布の内側まできっちり冷えているのが分かった。表だけ濡れた服ではない。働いているあいだ、熱を作る余裕そのものがなくなっていた服だ。こういう夜は、横になれるかどうかの前に、「自分はもう立ち続けなくていい」と身体へ知らせるところから始めなければならない。
「座る前に、靴だけ脱ぎましょう」
「大丈夫です」
「大丈夫な人の足は、そんなふうに床を探りません」
言うと、リタはようやく壁へ指をついた。立っているつもりでも、重心がずれている。ユナは黙って奥の部屋へ火鉢を運び、ミアは桶の湯を替えに走った。朝霧亭では、誰かを休ませると決まったあとが早い。そこが神殿と違う、とフィオナは近ごろよく思う。
部屋へ入ると、リタは寝台を見るより先に戸口を振り返った。
「朝、まだ暗いうちに出たいんです」
「分かっています」
サラが答える。
「起こす時間は決める。でもその前に、今夜の身体を戻す」
フィオナは桶の湯へ塩を少し落とし、足を浸す布を二枚折った。リタの指先は白く、爪の根元だけ妙に赤い。冷えた足を無理に靴へ押し込んで歩き続けた足だった。
「痛いと思います」
「……はい」
「でも、そのまま寝るより朝が楽になります」
足へ布を当てると、リタは初めて短く息を吸った。悲鳴を呑み込む時の音に近い。身体の外へ出せない疲れは、こういう時にいちばん分かる。
ミアが湯呑みを差し出す。
「甘くないけど、温まるやつ」
薄い塩気をつけた白湯だった。糖を足すより、まず喉と腹へ温かさを戻した方がいい夜もある。リタは二口目から少しずつ飲み方がゆっくりになった。
「施療小屋、そんなに人が減ってるんですか」
フィオナが問うと、リタはしばらく黙ってから頷いた。
「減ったというより、帰らせてもらえない日が増えたんです」
それは人手不足より厄介な言い方だった。人が足りないなら補う発想が出る。帰らせないで持たせる仕組みが出来ると、崩れるまで数える側が勝つ。
夜半の見回りでは、リタは深く眠ってはいなかった。それでも寝台へ上がり、靴を脱いだまま毛布へ足を入れていた。帰れない夜番に必要なのは、朝まで完璧に回復する奇跡ではない。朝に立てるところまで戻る床だ。
枕元には、明け方に履き直すための靴下が畳んで置かれていた。ユナが無言で持ってきたものだ。そういう小さな段取りが、戻る人の怖さを一つ減らす。戻る場所がまだ過酷でも、戻る時の足先が少しましなら、それだけで次の半日が違ってくる。
夜番が長引く日には、帰れない働き手をどうやって一度人へ戻すかが、宿の値打ちになる。フィオナは部屋の戸を静かに閉めながら、朝霧亭が拾う夜は、もう客だけのものではないのだと確かめていた。
神殿を追われた夜、フィオナは「泊まれるかどうか」だけを考えていた。けれどいま目の前にあるのは、泊まれることより、明け方に立って戻れることの方が大きい夜だ。宿の仕事は、ただ横たえることではない。壊れきる前の人を、朝に間に合う形で返すことなのだと、彼女は改めて思っていた。




