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第35話 戻る場所の目印

 人は、帰る場所そのものより、帰っていい目印があるかどうかで立ち止まれる。


 昼過ぎ、雨宿りを兼ねて朝霧亭へ入ってきたのは、子どもを連れた若い母親だった。女の名はリア。子どもはまだ五つか六つほどで、濡れた外套の裾を握りしめている。


 リアの髪は明るい栗色で、急いで結い直したのか後れ毛だけが頬へ貼りついていた。年はフィオナより少し上くらいに見えるのに、肩から腕にかけての線が妙に固い。片手で子どもの体温を確かめ、もう片方で荷を離さない人の姿勢だった。連れられた子どももよく似た色の髪をしていたが、額の汗だけは冷えていて、眠いのと心細いのを同時に我慢している顔をしていた。


 母親の方は落ち着いて見えた。だが、それは落ち着いているのでなく、崩れないように強く立っている顔だった。子どもの前では倒れられない人の顔だ。


「一晩、お願いできますか」


「もちろんです」


 ユナが答える横で、フィオナは子どもの靴を見た。泥が深い。長く歩いてきた足だ。子どもは黙っているが、歩き疲れた子は静かになる。


 部屋へ入ると、リアは最初に窓の外を見た。街道へ戻る道が見えるかどうかを確かめるような目だった。


 客間は街道側の端で、雨の筋が窓板を叩く音が細く響いていた。濡れた靴を脱いだあとも、リアはしばらく立ったままだった。荷を床へ下ろしたら、そのまま自分も崩れそうだと知っている人間の立ち方だ。子どもだけが先に寝台へ腰を下ろし、足を投げ出しかけて、母の顔色を窺ってから慌てて揃え直す。


「出発は明日の朝ですか」


 フィオナが聞くと、彼女は少しだけ困ったように笑った。


「本当は、今夜のうちにでも進みたいです。でも、この子がもう持たなくて」


 子どもは寝台の端へ腰を下ろし、そこで初めて長く息を吐いた。許可が出るまで座れなかったのだろう。


 フィオナは湯を運びながら、戸口の横へ小さな木札を掛けた。客の名ではなく、「ここで休む」とだけ書いた札だ。朝霧亭では、混乱が続いた日だけ使う札だった。


 リアは不思議そうにそれを見た。


「これは?」


「戻ってきた時、ここが今夜の場所だと分かるように」


 子ども連れの客は、湯場へ行くにも食堂へ行くにも、何度も荷物と部屋を気にする。道の途中で居場所を変え続けた人ほど、その傾向が強い。


「目印があると、少し戻りやすいです」


 リアは木札を見つめ、それから目を伏せた。


「そういうの、久しぶり」


 夕食の後、子どもは先に眠った。小さい手がまだ母の袖を握っている。リアはその手を外さず、寝台の端へ浅く腰掛けたまま動かなかった。


 寝息が落ち着いても、リアの背中だけはまだ旅の速さを引きずっている。肩甲骨のあたりがずっと上がったままで、背もたれのない椅子に長く座った人のように腰がこわばっていた。眠りたいはずなのに、眠る前に誰かを見張る役目だけが残っている。母親の疲れ方は、こういう時にいちばん分かりやすい。


「眠ってください」


「この子が起きたら」


「起きたら、また呼んでください」


 そう言っても、彼女はすぐには横にならない。母親の眠れなさは、自分の不安だけでなく、誰かの眠りを見張る責任でもできている。


 サラは夜の見回りで、その様子を一目見て小さく言った。


「ああいう人は、『起こしてもいい』がないと寝ない」


 そこでフィオナは戸の外にもう一枚、小さな札を足した。


 `湯場へ行く間は、こちらで見ています`


 たった一行だったが、リアはその札を読んだあと、ようやく短く肩を落とした。


 それは信用というより、降参に近い仕草だった。全部は預けられなくても、ひと呼吸ぶんだけなら手放してよいと身体が認めた時、人はこんなふうに力を抜く。フィオナはその変化を見て、木札や短い文が、寝具や湯と同じくらい宿の道具なのだと改めて思った。


 朝、子どもは少し遅く起きた。リアの方は眠れたとは言い難い顔だったが、それでも昨夜よりは目の焦点が定まっている。


「戻る場所があるだけで、こんなに違うんですね」


「はい」


 フィオナは木札を外しながら答えた。


「休むって、寝台だけのことじゃないので」


 朝霧亭が作っているのは、眠りそのものだけではない。戻ってきていい印を、夜のあいだ失わずに置いておくことでもある。フィオナはそう思いながら、木札の紐を指先で整えた。

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