第34話 湯気の向こうの不機嫌
不機嫌な人が皆、怒っているとは限らない。たいていは眠れていないだけだ。
その日の客は、街道税の徴収補助に回されている若い役人だった。名はアルト。服はきちんとしているのに、襟元だけが何度も引いた跡で乱れている。帳場へ立った時から、返事は丁寧なのに語尾だけが硬かった。
濃い紺の上着は質が良く、肩章の縫い目にもほつれはない。それでも旅塵は払えておらず、袖口のあたりだけ紙の粉のような白い汚れが残っていた。帳面や通行札を何度も捲った手だ。淡い灰色の髪は几帳面に整えた名残があるのに、こめかみの辺りだけ乱れている。整えても整えても、途中で気にする余裕がなくなったのだろう。
ユナは名簿へ記しながら、フィオナにだけ聞こえる声で言った。
「感じ悪い人?」
「疲れている人だと思います」
アルトは夕食の席でも、誰とも目を合わせなかった。箸を置く音だけが少し強い。周囲の客も、その硬さを面倒に感じているのが分かる。だが、面倒な客と決めつけるのは早い。
フィオナは彼の器の減り方を見た。食べてはいる。だが味わっていない。咀嚼の間も短い。急いでいるのでなく、口へ入れる以外のことを考えたくない時の食べ方だ。
それに、匙を置くたび必ず戸口へ視線が走る。呼ばれる前の人間は、扉の方を見ない。呼ばれることに慣れた人間だけが、扉が鳴るより先に意識の端をそちらへ置く。食堂の灯りは柔らかいのに、アルトだけはまだ昼の職場の顔を外せていなかった。
「夜の見回り、戸は固めに閉めた方がいいですか」
声をかけると、アルトは一拍遅れて頷いた。
「……音が気になるので」
その答えが出るだけで十分だった。怒っているのでなく、外の気配を切れずにいる。
サラが部屋の鍵を持ってきた。
「奥の部屋にしよう。裏口から遠い方」
朝霧亭では、不機嫌を直すことはできない。けれど、不機嫌の正体が眠れなさなら、その分だけ削ることはできる。
部屋へ案内すると、アルトは寝台より先に窓枠を確かめた。次に戸。最後に水差し。
「夜、呼ばれることはありませんよね」
「こちらから無理に起こすことはありません」
言うと、ようやく肩が少し落ちた。呼び出しを前提に生きている人間の顔だった。職場で気配に慣れすぎると、宿へ来ても耳が先に起きたままになる。
部屋の壁は古い木で、雨の夜には少しだけ湿った匂いがする。朝霧亭の客間は豪華ではないが、戸の開く向きや寝台の置き方が、夜に不意打ちを食らいにくいよう作られている。サラが鍵を渡すより先に、アルトは寝台脇の卓がどこまで動くかを目で測っていた。身体が休みたがっていても、頭の方が先に逃げ道を確かめる人間なのだ。
フィオナは灯りを一つだけ弱くし、戸の下へ布を細く噛ませた。完全に遮るのではない。外が無音になると逆に眠れない人もいる。気配を薄くしながら、気配が消えすぎないようにする。
「気配がなくなりすぎると、余計に起きる人もいます」
アルトは意外そうにこちらを見た。
「……そうです」
それが本音だったのだろう。
夜更けの見回りでは、彼はまだ眠っていなかった。だが、寝台の上で目を開いているだけで、起き上がってはいない。不機嫌に見えた顔から、尖りだけが少し抜けていた。
翌朝、食堂へ下りてきたアルトは、昨夜より明らかに口数が増えていたわけではない。それでも、椀を受け取る時に「ありがとう」と付け足した。
ユナはそれだけで小さく驚いている。
「同じ人?」
「同じ人です」
フィオナは答えた。
「ただ、眠れないままの顔じゃなくなっただけです」
夜のあいだ抜けなかった棘が、朝には薄紙一枚ぶんだけ丸くなっている。それだけで、人は別人に見えることがある。朝霧亭が相手にしているのは、怒りそのものではない。怒りの形を借りて表へ出てくる眠れなさや気の張りだ。そこを見誤らないことが、宿にとってはいちばん先の手当てになる。
アルトは席へ着く前に、一度だけ背中を伸ばした。昨夜はずっと前へ傾いていた身体だ。朝の姿勢が少し戻るだけで、その人が何に耐えていたかが見える。
「ここ、夜が静かですね」
「静かにしようとはしています」
「それだけで助かる人がいるんですね」
「はい。たくさん」
不機嫌の向こうにある疲れへ手が届いたなら、その宿は一歩だけ正しい。フィオナはそう思いながら、朝の湯気の向こうで椀を拭いた。




