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第33話 先に冷える手

 冷えやすい人は、たいてい我慢も早い。


 その日の夕方、朝霧亭へ入ってきたのは、荷馬車隊の最後尾にいた若い御者だった。年は二十そこそこに見えるのに、両手の甲は赤く荒れ、指先だけ色が違うほど冷えている。名をカイルという。口数は少なく、部屋へ通されても礼を言ったきり、それ以上は何も足さなかった。


 茶色がかった短い髪は、雨と風に揉まれて毛先だけ勝手な向きを向いていた。背は高いのに、戸口をくぐる時の身の縮め方が妙に小さい。大きな荷を避けて歩くことに慣れた人間の動きだった。外套の肩には縄の擦れ跡が白く残り、胸元には乾いた泥が細い筋になってこびりついている。長いあいだ座り直す暇もなく御者台にいたのだと、その汚れ方だけで分かった。


 だが、湯呑みを持たせた時に分かった。持ち方が変だ。熱い器を避けるのでなく、指を深く曲げられないように持っている。


 フィオナは湯気の向こうで、その手元を見た。


「長く手綱を握っていましたか」


 カイルは一瞬だけ目を上げた。


「……分かるんですか」


「分かることがあります。冷えただけでなく、同じ力の入れ方が続いています」


 街道で働く人の疲れは、脚より先に手へ残ることがある。荷車を押す、綱を引く、縄を結ぶ。どれも地味だが、夜になる頃には手の形が変わる。


 サラが横から覗き込んだ。


「こういう手の人、夜中に急に目が覚めるんだよね。握ったまま寝てるから」


「はい。しかも起きた後もしばらくほどけません」


 カイルは否定しなかった。否定しない人間は、たいていもう何度も同じことを繰り返している。


 食堂では鍋の蓋が鳴り、奥ではユナが椀を重ねている。いつもの夜の音なのに、カイルだけはそのどれにも肩を揺らさなかった。揺らすだけの余力がないのだろう。疲れ切った人は音に苛立つ前に、音へ反応する筋肉から先に黙る。そういう黙り方は、眠れば治るものと、眠る前にほどかなければ朝まで残るものがある。


 フィオナは白湯へ香草ではなく、ごく薄く塩と温めた脂を落とした。喉のためでなく、手先まで血が戻るようにするためだ。寝台へ入る前に、握るのでなく開く時間を作らなければならない。


「今夜は、荷を持つ手を先に休ませましょう」


「手だけ?」


「手がほどけると、肩も少し遅れてほどけます」


 部屋は湯場に近い方を当てた。深く眠らせるより、冷え切る前に身体を戻す方が先だと見たからだ。ユナは毛布を一枚足しながら、低く言った。


「若いと、平気そうに見えちゃうんだよね」


「そういう人ほど、止まるのが下手です」


 部屋へ入ると、板床の冷えがまだ少し残っていた。サラが先に火鉢の位置をずらし、戸の下へ布を噛ませる。湯場に近い部屋は湯気が回る分だけ暖かいが、往来の音も拾いやすい。だから、温めることと落ち着かせることを同じ手順にしなければならない。フィオナは洗面鉢に張った湯へ短布を浸し、絞ってから、まずカイルの手へ当てた。


 カイルは部屋へ入る直前まで、右手だけを無意識に握ったり開いたりしていた。自分でも違和感があるのだろう。だが、こういう人は「痛い」とは言わない。「動くから大丈夫」で済ませる。


 夜半の見回りでは、彼は寝台で眠っていた。両手は胸の上ではなく、布団の外で開かれている。指のあいだに力が残っていないだけで、眠りの深さはずいぶん違う。


 翌朝、朝食の席でカイルは湯呑みを左手で持ち、右手をゆっくり開いていた。


「今朝、手がしびれてない」


 驚いたように言う。


「よくあることなんですか」


「よくはないですが、あります。冷えたまま我慢すると出やすいです」


 彼は少し考えてから、ようやく息を吐いた。


「昨日、初めて綱を落としそうになった」


 その一言で十分だった。朝霧亭が拾っているのは、ただ眠れない夜ではない。仕事の途中で落としかけたもの、その手前で人を止めるための夜でもある。


 先に冷える手を見つけられたのなら、その夜はまだ間に合う。フィオナはそう思いながら、空になった椀を受け取った。

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