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第32話 休める職場の匂い

 休める場所には、音だけでなく匂いの違いもある。


 翌朝、エナが目を覚ました時、最初に言ったのは「静か」ではなく「焦げてない」だった。


 食堂ではユナが粥鍋の火を弱めているところで、香草をあぶる匂いも、布を乾かす匂いも、ちゃんと分かれていた。向こうでは全部が一緒に焦げる匂いになる。忙しさが混じりすぎると、職場はそういう匂いになる。


「神殿は、昼になるといつも何か焦げた匂いがしてた」


 エナは湯呑みを持ちながら言う。


「鍋じゃなくて、人の余裕が焦げてるみたいな」


 ユナが目を丸くした。


「嫌な言い方だけど、分かるかも」


 朝霧亭も忙しい。客が増えれば洗い場は詰まるし、夜番が伸びれば朝支度も重なる。けれど最近は、焦げた匂いになる前に一手入れられるようになっていた。


 その違いは、たぶん外から見ると分からない。食堂に湯気が立ち、洗い場で皿が鳴り、玄関では客の靴音がする。どこにでもある朝の音だ。けれど、同じ忙しさでも「次は誰が倒れるか」を予感しながら走る職場と、「まだひと呼吸戻れる」と知りながら走る職場では、空気の張りつめ方が違う。焦げた匂いとは、鍋や布の匂いだけでなく、その張りつめ方が行き過ぎた時の匂いなのだと、フィオナは思う。


 フィオナはその違いを、宿のやり方として言葉にしておきたかった。


「うちで変わったのは、みんなが強くなったからじゃありません」


「分かる。そんな急に強くなれない」


 サラが即座に返した。


「じゃあ?」


 ミアが聞く。


「減りきる前に止まる場所が少し増えました」


 白湯を飲む、引き継ぎ紙を見る、順番札を使う、先に寝かせる人を決める、荷を見える位置に置く。どれも小さい。けれど小さいからこそ続く。


 エナは椀の縁を指でなぞった。


「向こうは逆。止まる場所を無くしてる」


 朝霧亭の空気は、そこで少し沈んだ。誰もすぐには言葉を返さない。けれど、その沈黙は嫌なものではなかった。みんなが同じ場所を見ている沈黙だった。


 フィオナは、その沈み方に少し救われてもいた。前の職場では、こういう話はたいてい誰かが冗談で流すか、「今は忙しいから」で畳まれて終わった。ここでは、答えが出なくても一度は立ち止まる。その一拍があるだけで、人の減り方は少し違う。


 昼前、ルド婆さんが洗い場から顔を出した。


「今日は焦げてないよ」


 その一言に、ユナが吹き出す。


「何それ、宿の合格基準?」


「合格だよ。少なくとも、今朝はね」


 フィオナも少し笑った。働く場所が休めるかどうかは、立派な規則より先に、こういう感覚に出るのかもしれない。


 午後、神殿へ戻るエナを見送る前に、フィオナは小さな包みを渡した。香草ではなく、乾いた果皮と塩を少し混ぜた湯用の包みだ。眠らせるためではなく、減りすぎた身体を戻すためのもの。


「昼を抜いた時に」


「抜かない方がいいんだけどね」


「抜いた時に」


 言い直すと、エナは苦く笑って受け取った。


「戻る場所があるって、思っていい?」


「もちろんです」


 朝霧亭は避難所ではない。宿だ。けれど、帰れない職場の代わりに、一晩だけ身体を戻す場所にはなれる。


 それは大げさな救済ではない。職場を変えられるわけでも、神殿のやり方を一夜で正せるわけでもない。けれど、焦げきる前に一度だけ温度を下げることならできる。働く人が「まだ駄目になっていない」と思える朝を作ることならできる。その手触りを、朝霧亭は少しずつ覚えていた。


 休める職場の匂いは、特別な香りではない。焦げ切る前に止まれた朝の匂いだ。フィオナはその匂いを、できるだけ長く宿に残したいと思った。客を眠らせるだけでなく、働く人間が働き続けられる匂いとして。

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