第30話 戻りたくない人の朝
旅人の中には、早く目的地へ着きたい人と、なるべく次の朝を遅らせたい人がいる。
イリスは後者だった。
朝食の後も、すぐに荷をまとめようとしない。急いでいないのではない。行き先へ着いたあとのことを考えるだけで足が鈍るのだと、見ていれば分かる。
ユナは帳場で銅貨を数えながら、ちらりとその背中を見た。
「まだ発ちたくない顔だね」
「はい」
フィオナも同じように感じていた。眠れない理由を置いていける人もいれば、置いていけないまま出ていく人もいる。宿ができるのは、その朝を少しだけ軽くすることくらいだ。
イリスは荷袋の紐を結び直し、ほどき、また結び直した。三度目でようやく形が決まる。そういう手元の迷いが、そのまま心の迷いだった。
荷造りに迷う人は多い。忘れ物を確かめる人も多い。だが、イリスの手は中身ではなく、出発そのものを結べずにいる。結び目が決まれば、本当に行かなければならない。ほどけば、もう少しだけここにいられる。その往復が、細い紐にそのまま出ていた。
「街道、ぬかるんでますか」
不意に聞かれ、フィオナは窓の外を見た。
「昨日よりは乾いています。でも昼前の方が歩きやすいです」
すぐ出る必要はない。そういう意味を少しだけ含めて答えると、イリスは弱く息を吐いた。
「……よかった」
朝霧亭は長く引き留める宿ではない。けれど、出ていく人が自分の足で時刻を選べるなら、その自由は残したい。
神殿にいた頃のフィオナは、時刻を決める側にいた。次の祈祷、次の配給、次の施療。人は時間に間に合うかどうかで並び替えられていた。だから余計に思う。誰かが「今すぐではなく、もう少し後に出る」と選べる朝は、それだけで少し人間らしい。急がされない数刻があるだけで、道中で折れずに済む人もいる。
サラが見回り帰りの上着を外しながら、食堂の隅へ座った。
「行き先が嫌な人は、発つ時より、発つ前がいちばん疲れる」
「経験があるんですか」
「あるよ」
それ以上は言わなかった。だが、そういう沈黙の方がイリスにはちょうどよかったらしい。慰めよりも、知っている人間が一人いるという方が効く朝もある。
フィオナは小さな包みを作った。乾いた香草を少し、湯へ落とすだけで匂いが立つ程度。薬というほどのものではないが、眠れない夜の手がかりにはなる。
「道中用です」
イリスはそれを見て、困ったような顔をした。
「代金は」
「宿の余りです」
「そんな言い方、たぶん嘘でしょ」
初めて、少しだけ冗談に近い声が混じった。フィオナもごく小さく笑う。
「少しだけ」
包みを受け取ったイリスは、今度はすぐに荷袋へしまわなかった。手のひらに乗せて、匂いを一度だけ確かめる。帰る先に安心がない時、人は道中の小さな安心にすがるしかない。
昼前、彼女はようやく戸口へ立った。出発の顔としては頼りないままだったが、昨夜よりは背筋が残っている。
「また眠れなくなったら、寄ってもいい?」
「もちろんです」
ユナが先に答え、フィオナも頷いた。宿とは、同じ人が戻れる場所であっていい。
イリスが見えなくなったあと、ミアがぽつりと言った。
「泊まってる間より、出ていく時の方が心配になる人っているね」
「います」
「でも、引き止められない」
「はい」
引き止められないからこそ、宿で渡せるものをきちんと渡すしかない。眠り一晩分。温い白湯。香草の小包。誰かが自分の事情を笑わなかった記憶。
朝霧亭に来る客の多くは、次の町へ行けば問題が解決するわけではない。むしろ次の町でも同じ荷を背負うだけの人の方が多い。だからこそ、宿の仕事は一晩で人生を変えることではなく、次の朝に倒れない程度まで人を戻すことなのだと、フィオナはあらためて思った。
戻りたくない人の朝は、晴れたから軽くなるわけではない。それでも、少しだけ発つ時刻を自分で選べたなら、その朝は完全な負けではない。




