表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/106

第30話 戻りたくない人の朝

 旅人の中には、早く目的地へ着きたい人と、なるべく次の朝を遅らせたい人がいる。


 イリスは後者だった。


 朝食の後も、すぐに荷をまとめようとしない。急いでいないのではない。行き先へ着いたあとのことを考えるだけで足が鈍るのだと、見ていれば分かる。


 ユナは帳場で銅貨を数えながら、ちらりとその背中を見た。


「まだ発ちたくない顔だね」


「はい」


 フィオナも同じように感じていた。眠れない理由を置いていける人もいれば、置いていけないまま出ていく人もいる。宿ができるのは、その朝を少しだけ軽くすることくらいだ。


 イリスは荷袋の紐を結び直し、ほどき、また結び直した。三度目でようやく形が決まる。そういう手元の迷いが、そのまま心の迷いだった。


 荷造りに迷う人は多い。忘れ物を確かめる人も多い。だが、イリスの手は中身ではなく、出発そのものを結べずにいる。結び目が決まれば、本当に行かなければならない。ほどけば、もう少しだけここにいられる。その往復が、細い紐にそのまま出ていた。


「街道、ぬかるんでますか」


 不意に聞かれ、フィオナは窓の外を見た。


「昨日よりは乾いています。でも昼前の方が歩きやすいです」


 すぐ出る必要はない。そういう意味を少しだけ含めて答えると、イリスは弱く息を吐いた。


「……よかった」


 朝霧亭は長く引き留める宿ではない。けれど、出ていく人が自分の足で時刻を選べるなら、その自由は残したい。


 神殿にいた頃のフィオナは、時刻を決める側にいた。次の祈祷、次の配給、次の施療。人は時間に間に合うかどうかで並び替えられていた。だから余計に思う。誰かが「今すぐではなく、もう少し後に出る」と選べる朝は、それだけで少し人間らしい。急がされない数刻があるだけで、道中で折れずに済む人もいる。


 サラが見回り帰りの上着を外しながら、食堂の隅へ座った。


「行き先が嫌な人は、発つ時より、発つ前がいちばん疲れる」


「経験があるんですか」


「あるよ」


 それ以上は言わなかった。だが、そういう沈黙の方がイリスにはちょうどよかったらしい。慰めよりも、知っている人間が一人いるという方が効く朝もある。


 フィオナは小さな包みを作った。乾いた香草を少し、湯へ落とすだけで匂いが立つ程度。薬というほどのものではないが、眠れない夜の手がかりにはなる。


「道中用です」


 イリスはそれを見て、困ったような顔をした。


「代金は」


「宿の余りです」


「そんな言い方、たぶん嘘でしょ」


 初めて、少しだけ冗談に近い声が混じった。フィオナもごく小さく笑う。


「少しだけ」


 包みを受け取ったイリスは、今度はすぐに荷袋へしまわなかった。手のひらに乗せて、匂いを一度だけ確かめる。帰る先に安心がない時、人は道中の小さな安心にすがるしかない。


 昼前、彼女はようやく戸口へ立った。出発の顔としては頼りないままだったが、昨夜よりは背筋が残っている。


「また眠れなくなったら、寄ってもいい?」


「もちろんです」


 ユナが先に答え、フィオナも頷いた。宿とは、同じ人が戻れる場所であっていい。


 イリスが見えなくなったあと、ミアがぽつりと言った。


「泊まってる間より、出ていく時の方が心配になる人っているね」


「います」


「でも、引き止められない」


「はい」


 引き止められないからこそ、宿で渡せるものをきちんと渡すしかない。眠り一晩分。温い白湯。香草の小包。誰かが自分の事情を笑わなかった記憶。


 朝霧亭に来る客の多くは、次の町へ行けば問題が解決するわけではない。むしろ次の町でも同じ荷を背負うだけの人の方が多い。だからこそ、宿の仕事は一晩で人生を変えることではなく、次の朝に倒れない程度まで人を戻すことなのだと、フィオナはあらためて思った。


 戻りたくない人の朝は、晴れたから軽くなるわけではない。それでも、少しだけ発つ時刻を自分で選べたなら、その朝は完全な負けではない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ