第2話 眠れない部屋
ミアの手は、湯呑みを持つだけで小さく震えていた。
夜番詰所の隅に置かれた長椅子へ座らされても、彼女はまだ「大丈夫です」と言い張っている。大丈夫な人間は、そう何度も言わない。サラは分かっていたが、それを口にしても素直に座っている相手ではなかった。
「交代まであと一刻はあるんです」
ミアは唇の乾いたままそう言った。二十歳にも満たない顔立ちなのに、目の下の色だけが年上みたいに濃い。肩へかけた夜番用の厚布も、今は重りにしか見えなかった。
「一刻あるから座れって言ってる」
「でも、人が」
「足りないのは見れば分かる」
サラの声はきつい。きつくしないと、この宿の夜はすぐ崩れる。だが、きつく言われて素直に身体を休められるなら、ミアはとっくに倒れていない。
ユナが横から小声で割って入った。
「お粥、もう少し煮えたら持ってくるね。塩も入れる」
「悪い」
「悪いなら座ってて」
ユナの方がよほど率直だった。ミアはそこでようやく、少しだけ肩の力を抜く。年が近いせいもあるのだろう。サラが言うより、ユナの一言の方が染みることがある。
その時、詰所の戸口に細い影が立った。
フィオナだった。借りたばかりの部屋着に着替えている。宿の古い寝間着は少し大きかったが、蜂蜜色の長い髪をゆるく結び直しただけで、さっきまでの街道の行き倒れとはだいぶ印象が違った。顔色はまだ白い。だが、灰青の目の焦点ははっきりしている。
「起きてきたのか」
「すみません。水をいただこうと思って」
「勝手に取ればいい」
言ってから、サラはフィオナの視線がすでにミアへ向いていることに気づいた。見るというより、確かめるような目だった。
「……眠れていませんね」
唐突に言われ、ミアが顔を上げる。
「え?」
「眠れていない上に、冷えが中へ入っています。脚と指先が戻っていません」
サラは眉をひそめた。
「見ただけで言うな」
「匂いと、呼吸と、座り方です」
フィオナはそれ以上大げさに言わなかった。奇跡が見える、などとも言わない。むしろ少し迷いながら、それでも口に出すべきだと決めているような言い方だった。
「この人、布団へ入ってもすぐには眠れません。肩と首が固いのと、足元が冷え切っています。あと、今のまま温かいものを急に入れると、気持ち悪くなるかもしれません」
ミアが困ったように笑った。
「なんでそんなこと……」
「たぶん、ずっとそういう人を見てきたからです」
自分でも説明しきれない、と言外に含んだ言い方だった。サラはそこで初めて、フィオナの能力が「治す」より「読む」に寄っているのだと少しだけ理解する。
読むだけなら何の役にも立たない。普通はそうだ。
だが現場では、崩れる一歩手前が分かるだけで大きい時もある。
「どうすればいい」
サラが短く聞くと、フィオナは少し驚いた顔をした。自分の言葉が採用されるとは思っていなかったのだろう。
「……あの、もし嫌でなければですけど」
そう前置きしてから、フィオナは詰所の寝台へ目を向けた。
「布団を一枚減らして、下に乾いた布をもう一枚入れたいです。湿り気が残っています。あと火鉢は足元寄りにして、香草は強すぎない方がいいです。眠らせるために焚きすぎると、逆に息が重くなります」
ユナがぱっと反応した。
「乾いた布なら裏にあるよ。昼に替えたやつ」
「持ってこい」
「はーい」
ミアは目を丸くしていたが、もう反論する元気もなさそうだった。フィオナはその前にしゃがみ込み、少しだけ距離を取って座る。触れない。触れないのに、相手の呼吸の浅さを崩さない位置を選んでいるようだった。
「手を見せてもらってもいいですか」
「……手?」
「はい。冷え方が分かるので」
ミアは戸惑いながらも手を差し出した。フィオナはその指先に自分の指を軽く当てた。祈りの形ではない。診るような、確かめるような手つきだ。
「無理してますね」
それは責める声ではなく、ただ事実を言う声だった。
「夜番の途中で休むと、誰かに押しつけることになるから」
ミアの答えは、働く側の人間がよくする答えだった。倒れないためではなく、誰かへ倒れる負担を渡さないために立ってしまう。サラはそれを何度も見てきたし、自分も同じことをしてきた。
フィオナはうなずいた。
「分かります」
軽々しく「休んでください」と言わなかったのが、かえってサラには効いた。
ユナが乾いた布と薄い毛布を抱えて戻る。三人で寝台を整え直す間も、フィオナは手を止めなかった。火鉢の位置を少し寄せ、枕の下の畳んだ布を抜き、香草袋を開きすぎないように結び直す。どれも小さなことだ。だが、小さいことほど忙しい夜には後回しにされる。
「粥はすぐ食べないでください。少しだけ湯を飲んで、呼吸が落ち着いてから」
「先生みたい」
ユナがぽつりと言うと、フィオナは困ったように首を振った。
「先生ではないです。そういう大きなことはできません」
その言い方には慣れがあった。できない、と自分へ言い聞かせるのに慣れてしまった人の声だ。
ミアが寝台へ横になると、さっきまで張っていた肩がわずかに落ちた。すぐ眠れるわけではないだろう。だが、少なくともさっきのように、まぶたの裏で仕事の続きだけを見ている顔ではなくなっていた。
サラはその変化を見逃さなかった。
「……今夜は詰所の帳場に座れ」
突然言われて、フィオナが目を瞬かせる。
「私が、ですか」
「見回りはさせない。客の呼び鈴が鳴ったら起こすだけだ。座ってるだけでも、人手は人手だ」
本当は、そこまで信用したわけではない。だが、このまま部屋へ戻して寝かせても、どうせフィオナは気にして眠れないだろう。それなら詰所の隅へ座らせた方がましだ。
「……はい」
返事のあと、フィオナの目が少しだけ柔らかくなった。役に立てる場所を与えられたことへの安堵が、あまりにも露骨だった。
その表情を見て、サラは胸の奥で小さく舌打ちする。そういう顔を見ると、切り捨てる判断がしにくくなる。
詰所の外では風が鳴っていた。まだ夜は長い。客の熱も、湯番の不足も、朝の仕込みも何も解決していない。それでも、ミアの呼吸はさっきより深い。ほんの少し、夜の崩れ方が変わった。
それだけで今は十分だと、サラは思った。




