第29話 眠れない理由を持ち帰る客
宿に残るのは金だけではない。眠れなかった理由も、時々は置いていかれる。
夕方、商い帰りだという若い女が一人で泊まりに来た。背負い袋は小さいのに、肩と首がひどく強張っている。部屋へ通したあとも、戸口のところで何度か振り返った。
フィオナはその癖に覚えがあった。物が足りない不安ではない。人の声が追ってくる不安だ。
夕食の場でも、女は誰かが笑うたびに肩をすくめた。ユナが柔らかく話しかけても、受け答えはきちんとしているのに、身体だけが全くほどけない。
笑い声そのものが嫌なのではないのだと、フィオナには分かった。誰かが急に大きな声を出した時、その次に何が飛んでくるか分からない人の縮こまり方だ。言葉か、命令か、侮辱か。先に身を固くしておけば、少しだけ傷が浅く済むと体が覚えてしまっている。
「眠れないの、旅のせいじゃないかもしれませんね」
フィオナが小さく言うと、サラは椀を拭きながら低く返した。
「人の声に怯える顔だね」
女の名はイリスといった。町の店で働いていたが、辞めて実家へ戻る途中らしい。詳しい事情は話さなかった。だが、話さないこと自体が事情の重さを示していた。
部屋に運んだ湯へも、彼女はすぐには手を伸ばさなかった。先に戸のかんぬきを二度確かめる。窓も確かめる。それからようやく腰を下ろした。
フィオナは香草より先に、部屋の音を確かめた。表の笑い声が届きにくい奥の部屋。寝具は軽く、喉が詰まらないよう重ねすぎない。灯りは完全に消さず、少しだけ残す。
「真っ暗だと眠れない人もいます」
そう伝えると、イリスはわずかに顔を上げた。
「……分かるの?」
「分かることもあります」
「笑われたりしない?」
「ここでは、眠れない理由で笑う人はいません」
言い切ってから、フィオナは自分でも少し驚いた。以前の自分なら、そこまで断言できなかったかもしれない。だが朝霧亭は、少なくともそういう宿になりつつある。
夜半の見回りで、イリスは寝台に横になっていたが、眠りは浅かった。足先は布団の外に出ているのに、手はきつく握られている。身体が眠る準備をしても、心だけがまだ戸口に立っているような眠り方だ。
戸口の外を人が通るたび、まぶたの下で眼球がかすかに動く。完全には目覚めないのに、完全にも沈まない。そういう眠りは翌朝いちばん足へ出る。立ち上がる瞬間に膝が重く、肩が先にすぼまる。フィオナは何度も見てきた。だから、今夜イリスに必要なのは深く眠らせる香りではなく、「起きてもすぐ飲める湯」と「まだここは閉じているという安心」だった。
フィオナは白湯を少し温め直し、戸の外へ置いた。起こして飲ませるほどではない。だが目が覚めた時、すぐに口にできる物があるだけで、人はまた落ち着ける。
翌朝、イリスは目の下にまだ薄い影を残していたが、昨夜より声が出ていた。
食堂へ下りてきた時も、彼女は最初に壁際の席を選んだ。けれど、昨日のように戸口ばかり見はしない。ユナが椀を置くと、きちんと礼を言って、二口目を急がずに飲んだ。眠りが十分でなくても、人は少しだけほどけるだけで朝の動きが変わる。その違いは、長く宿を見ていればよく分かる。
「全部は無理でも、少し眠れた」
「それなら十分です」
「十分なの?」
「次の夜を諦めなくていいので」
その答えを、イリスはしばらく考えていた。宿を出る時、彼女はふいに振り返って言う。
「ここ、理由ごと預けられるんだね」
フィオナは小さく頭を下げた。そういう宿でありたいと思う。
眠れない理由を全部解くことはできない。だが、持ったまま眠れるように手を添えることはできる。朝霧亭が拾っているのは、寝不足だけではなく、その背後にある重さなのだと、フィオナは改めて知った。




