第28話 空の寝台を作らないために
埋まっていない寝台があるからといって、誰でもそこへ寝かせればいいわけではない。
午後、朝霧亭に荷馬車が二台続けて入り、表の客間が一気に埋まった。街道のぬかるみで足止めを食い、予定より遅れて着いた客たちらしい。宿としてはありがたい。だが、こういう日に限って、夜に悪化しそうな客と、今夜こそ眠らせたい働き手が重なる。
ユナは帳場で鍵を並べながら、眉を寄せた。
「部屋はまだある。でも、ちょうどいい部屋がない」
その言い方が、フィオナにはよく分かった。静かな部屋、湯場に近い部屋、階段の少ない部屋、夜番の目が届きやすい部屋。寝台は同じでも、眠りやすさは同じではない。
表の一番奥には、まだ誰も入れていない客間がひとつ残っていた。窓の立て付けが悪く、雨の夜には風が鳴る。健康な旅人なら気にしない。だが寝つきの浅い客には向かない。
逆に、裏手の小部屋は狭いが静かで、夜に起きがちな客には向いている。ただし、荷の多い者を入れるには窮屈だ。
フィオナは鍵を見ながら、頭の中で部屋と客を組み直した。寝台の数ではなく、どの夜をどの部屋に受け持たせるかで考える。
神殿にいた頃、空き寝台は空き寝台でしかなかった。先着順で埋め、文句が出たら「今日は混んでいるので」で押し切る。それでも一晩は過ぎた。だが、過ぎた一晩のあとに悪くなる人はいたし、翌朝から働けなくなる人もいた。朝霧亭では、その「一晩は過ぎた」の先を考える。今日の割り当てが、明日の顔色まで変えるのを知ってしまったからだ。
「御者二人は風鳴りの部屋で大丈夫です」
「大丈夫?」
ユナが聞き返す。
「疲れていて、音より先に眠る顔です。逆に、荷を抱えた女の人は裏手へ」
「ナナさん?」
「はい。荷が見える場所でないと眠りが浅くなります」
サラは鍵の札を見て頷いた。
「空いてる場所に入れるんじゃなくて、眠れる場所へ入れるってことか」
「そうしないと、あとで夜番が全部拾うことになります」
「それは困る」
言いながら、サラの口元が少しだけ上がる。夜番責任者として、余計な火種が減るのは何よりありがたい。
ミアは新しく来た客の荷を運びながら、裏手の小部屋へ布を一枚足した。狭い部屋ほど、少しの柔らかさで印象が変わる。客にとっては「押し込まれた」ではなく「配慮された」に変わることがある。
夕方前、ナナは小部屋の中を見回してから、ほっと息をついた。
「ここ、荷が見えるんだね」
「夜のあいだ、目が届きます」
「それだけで、かなり違う」
その言葉に、フィオナは少し肩の力が抜けた。眠りを作るのは、湯や香草だけではない。荷が見える、戸が近い、風が鳴らない、誰かが気づける。そういう小さな条件の積み重ねだ。
一方、風鳴りの部屋へ入った御者たちは、案の定ほとんど文句を言わなかった。湯を飲んで寝台へ入ると、しばらくして静かな寝息が聞こえる。疲れの種類を間違えなければ、空の寝台は無理に埋めなくてすむ。
夜、ユナが帳場の端で言った。
「同じ『空き部屋あります』でも、前と意味が違うね」
「前は、空いているから使うだけでした」
「今は?」
「空けたままの方がいい部屋もあります」
その発想は、宿にとって少し贅沢だったかもしれない。だが、安く埋めた寝台が夜の混乱を呼ぶなら、その寝台は空いていた方がましだ。
宿の商いとして見れば、寝台は埋めた方がいい。空き部屋は損だ。フィオナにもその理屈は分かる。だからこそ、空けたままにする判断には理由がいる。誰をどこへ寝かせれば夜番が減るか、誰に静かな部屋を渡せば朝に客が一人増えるか。その細い計算を、朝霧亭は少しずつ覚え始めていた。
空の寝台を作らないために無理をするのでなく、空けるべき寝台を見極める。その夜、朝霧亭は少しだけ宿として賢くなった。




