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第26話 夜番の白湯

 眠りは寝台だけで作るものではない。夜番の手元にある湯呑み一つでも、朝の顔は変わる。


 その夜、サラは見回りに出る前に、珍しく自分から白湯を求めた。頼む、というほどではない。釜の横で少し立ち止まり、空の湯呑みを指先で回していただけだ。だが、今の朝霧亭ではそれだけで十分な合図になる。


「少し塩を入れますか」


 フィオナが尋ねると、サラは肩をすくめた。


「贅沢じゃないなら」


「贅沢ではありません。夜の身体が減りにくくなるだけです」


 塩をひとつまみ。ほんの少しだけ。濃くすると喉が渇き、薄すぎると意味がない。そういう細い加減を、フィオナは神殿でも見てきたが、向こうではたいてい「そこまでしなくても」で終わっていた。


 サラは白湯を一口飲み、少しだけ目を細めた。


「……思ったより効く」


「効くというより、減りにくくなります」


「言い方が仕事だね」


 からかうようでいて、声は柔らかい。ユナが横から覗き込んだ。


「それ、わたしも夜更かしの時に飲みたい」


「夜更かしじゃなくて帳場残業でしょ」


 サラが言い返し、二人の間に小さく笑いが起きた。そういう軽い応酬が、宿を宿にしている。


 夜番の途中、外で雨がぱらついた。気温が落ち、見回りのたびに身体が冷える。サラはいつもなら黙って歩くところを、その晩は一度だけ立ち止まり、白湯の残りを飲みきった。


 戸を開けるたび、濡れた木の匂いが細く入ってくる。廊下の板も、昼より少し冷えていた。夜番の仕事は見回りそのものより、冷えた身体で何度も起き直すことの方が堪える。白湯を飲んだあとのサラの喉がひとつ動くのを見て、フィオナはようやく「今夜は最後まで持つかもしれない」と思えた。


「今まで、こういうの誰も言わなかった」


 ぽつりと言う。


「我慢できる人ほど、後回しにされます」


 フィオナは答えた。


「我慢して見える人は、平気そうに見えるので」


「損だね」


「はい」


 サラは苦笑した。認める相手にだけ見せる苦笑いだった。


 その夜、見回りの戻りでサラは珍しく椅子へ腰を下ろした。ほんの一分か二分のことだ。だが、座ること自体が前より増えている。夜番責任者が自分の減り方を少し意識し始めた証だった。


 ミアがその姿を見て、小声で言う。


「サラさんが座ってる……」


「座りますよ」


「でも、前より座る」


 その観察は鋭い。働く側の小さな変化ほど、同じ職場の人間がよく見ている。


 朝霧亭は大きな宿ではない。だからこそ、誰がどこで息をついたか、どの椅子に何分座ったかまで、自然とみんなの目に入る。良い変化も悪い変化も隠れない。以前の職場では、その見えすぎる近さが煩わしい時もあったが、今は違う。気づける距離にいるからこそ、減りきる前の一杯を渡せる。


 朝方、巡礼客の一人が白湯を所望した時、サラは自分で塩の小壺を持ってきた。ほんの少しのことだが、誰か一人の工夫が宿のやり方へ変わる瞬間でもある。


 巡礼客は年若い男で、手の甲が赤くひび割れていた。冷えというより、歩き続けて身体の中が空になっている顔だ。サラは湯呑みを渡す時、いつもより少しだけ相手の手元を見るようになっていた。夜番責任者が「誰に何を足せば朝までもつか」を考え始めれば、宿は一段変わる。フィオナ一人の工夫で終わらない形になっていくからだ。


 眠りを守る仕事は、寝かせることだけではない。起きたまま持たせるやり方も、同じくらい大事だ。


 夜番の白湯は地味だ。だが、地味だから続く。続くものほど、宿の骨になる。


 奇跡のように見える手当は、たいてい続かない。薪代も塩代も、人の手間も、毎晩同じようには払えないからだ。だが白湯一杯なら続く。塩をひとつまみ足す程度なら、朝の仕入れを壊さずに続けられる。朝霧亭が守りたいのは、一晩の感動より、翌月も同じように差し出せる手つきだった。


 フィオナは空になった湯呑みを洗いながら、朝霧亭の夜が少しずつ人の身体に合わせて変わっているのを感じていた。

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