第25話 ほどける肩紐
疲れは、倒れる前に荷の持ち方へ出る。
昼過ぎ、朝霧亭へ入ってきた女は、背負い籠の肩紐を片方だけ異様に強く握っていた。手放せばそのまま崩れるのを、自分でも知っているような持ち方だった。年の頃は三十前後、髪を一つに束ね、旅塵の上からでも分かるくらい肩が固い。
「泊まれますか」
声は普通だった。だが、普通に話せる人ほど危ない時がある。
ユナが空き部屋を確かめる間、フィオナは籠の中身を見ないよう気をつけながら、肩紐の位置だけを見た。革が食い込み、片肩だけ赤くなっている。ずっと同じ姿勢で荷を支え続けた証拠だ。
「荷物、先に下ろしても大丈夫です」
そう言っても、女はすぐには下ろさなかった。やがて、自分の意思でそっと床へ置く。
その慎重さだけで、荷物が生活そのものなのだと分かった。
宿へ来る客は多いが、こういう持ち方をする人は少ない。荷が重いからではない。手を離した瞬間に、自分の暮らしそのものが床へ落ちてしまう気がしている人の持ち方だ。フィオナは胸の奥で、神殿を出る朝の自分の手を思い出した。あの時も、包みの重さより「ここで手を放したら本当に追い出されたことになる」という感覚の方が強かった。
「お名前を」
「ナナ」
短い返答だった。余計なことを言う余力がない。
フィオナはまず椅子を引き、背に柔らかい布を当てた。寝台へ直行させるより、肩の力を少しずつ落とした方がいい顔だった。
湯を持ってきたサラが、ナナの肩紐を見て眉をひそめる。
「これ、もう皮膚に食い込んでるね」
「ずっと替わりがなかったんだと思います」
「旅っていうより避難だね」
ナナはその言葉にだけ、かすかにまばたきをした。図星なのだろう。
フィオナは肩紐の跡へ濡れ布を当てた。薬らしい薬ではない。だが、痛みが「まだ背負っている」と身体に勘違いさせることを減らせる。
「今夜は、荷を背負わなくて大丈夫です」
言うと、ナナは少し笑いそうになって失敗したような顔をした。
「そういうこと言われるの、久しぶり」
その一言が重い。背負わなくていい夜がないまま、ここまで来たのだ。
朝霧亭へ流れ着く人間の多くは、宿代に困るより先に、背負い方を忘れている。下ろしていい場でどう下ろすのか、体が思い出せなくなっている。だからフィオナは、薬や香草より前に、荷物を見える場所へ置けるか、肩紐をほどいても叱られないか、そういう当たり前をひとつずつ戻してやりたかった。
部屋は一階の端にした。階段が少なく、荷をすぐ手元へ置ける場所。荷物を見える範囲に置けるだけで、眠りへ入る速度が変わる客がいる。
夜、見回りに入ると、ナナは寝台へ横になっていた。眠ってはいない。だが背負い籠を抱いたまま座り込んでいた時より、呼吸が深い。肩紐は枕元に解かれていた。
籠の口はきつく結ばれたままだった。布の端が擦り切れ、何度も結び直した跡がある。食べ物か、商い道具か、それとも身の回りの小さな財産か。中身は聞かない方がいいと分かっていた。ただ、見える場所に置けるだけで人が眠れることも、フィオナはもう知っている。神殿では「荷は邪魔だから奥へ」と言われがちだったが、朝霧亭では、その荷があるからこそ落ち着ける客がいる。
その紐がほどけているだけで、今夜この宿が役に立ったことが分かる。
朝、ナナは荷物を背負う前に、珍しく両肩を回してから紐をかけた。動きがひとつ増えるだけで、身体に余裕が戻っているのが見える。
肩を回した時、関節が小さく鳴った。昨日まで張りつめていた筋が、ようやく自分の体の中へ戻ってきた音だった。背負い直す仕草も、昨夜までの「落としたら終わる」という速さではない。持ち上げる前に重さを測り、どちらの肩へ多く乗るかを確かめる余裕がある。たったそれだけの違いでも、旅の次の日を越えられるかどうかには大きく響く。
「ここ、ちゃんと休めるんだね」
「休める人を増やしたいと思っています」
フィオナがそう答えると、ナナは深くは聞かなかった。ただ、小さくうなずいた。
働く側も、旅する側も、背負うものは違う。けれど、少しだけ肩を下ろせる夜がなければ、みんな同じように壊れる。
ほどける肩紐は、その夜の救いとしては十分だった。旅の問題が解けたわけではない。それでも、肩から荷の重さを一度下ろせたという事実は、次の朝へ持っていける小さな救いになる。




