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第24話 湯場の順番表

 忙しい日の湯場は、善意だけで回すと必ず誰かが冷える。


 その日は昼から客入りが重なり、さらに裏方の洗い物も増えていた。湯場の釜は一つしかない。客の足湯、働き手の手洗い、食器の湯通し、夜番明けの身体を温める桶。全部を同時にはできない。


 若女将が額の汗をぬぐった。


「足りないってほどじゃないのに、足りない」


 ユナのそういう言い方は、現場の真実に近い。量だけ見れば回る。だが、順番を間違えると必要な時に必要な湯がない。


 フィオナは釜の前へ立ち、今夜の使い道を紙へ書き出した。客用、施療用、洗い場用、夜番明け用。用途を分けるだけで、少しだけ頭の中が静かになる。


 サラがその紙をのぞき込み、顎をしゃくった。


「洗い場は後ろへ回していい」


「食器が遅れます」


「でも今は、冷えた足の客が先」


 ルド婆さんは不満そうに鼻を鳴らしたが、反論はしなかった。洗い場を回す人間ほど、湯の遅れがどこへ響くかを知っている。


 フィオナは紙を並べ替える。まず、子どもと高齢客の足湯。次に、咳のある客の胸を温める湯気。三番目に夜番明けの一人分。洗い物の湯通しは最後にまとめる。


「また順番?」


 ミアが笑う。


「最近なんでも順番ですね」


「順番がないと、みんな少しずつ困ります」


「順番があると?」


「誰かが先に助かります」


 その違いは大きい。全員を半端にしか助けられない夜より、一人ずつでもきちんと助けられる夜の方が、朝まで持つ。


 最初の足湯はヘレンの娘ノアへ回した。次に、咳き込みが戻ってきた巡礼客へ。三つ目の桶をサラに渡した時、彼女は少し意外そうな顔をした。


「私?」


「夜番明けです」


「まだ動ける」


「動けるうちに温めた方が、夜に響きません」


 サラは一瞬黙り、それから黙って桶を受け取った。こういう時の無言は、拒否ではなく受け入れだとフィオナはもう分かる。


 湯場の壁際には、しばらく使っていなかった木札があった。昔、風呂の順を示すために使っていた名残らしい。ユナがそれを見つけて持ってきた。


「これ、今なら役に立つかも」


 札は角が欠け、字も薄れていたが、十分使えた。客、裏方、夜番、施療。大ざっぱでも、見える形にすると迷いが減る。


 夕方の混乱の中で、湯場の前に小さな札が並んだ。誰が次か、何のための湯か、一目で分かる。派手な工夫ではない。だが、誰かが大声で言い張らなくても順番が保たれるだけで、宿の空気はかなり違う。


 いままでは、湯が足りなくなりそうになるたびに、強く言える人から先に桶を取っていた。客が悪いわけではない。冷えている足を見れば、誰だって自分を先に温めたくなる。けれど、声の大きさで順番が決まる夜は、働く側もすぐ荒れる。ルド婆さんが洗い場で苛立ち、ミアがどこへ運べばいいか迷い、最後にサラが全部を背負う。その流れを一度でも減らせるなら、木札は十分役に立つ。


 エナがその札を見て言う。


「神殿にも、こういう雑でも見える仕組みが必要だったのよ」


 フィオナはうなずいた。立派な規則板より、今夜使える木札の方が役に立つ夜は多い。


 夜更け、最後の湯を洗い場へ回した頃には、誰も怒鳴っていなかった。忙しさは消えない。だが、忙しいまま壊れる感じではなくなっている。


 ユナが釜の蓋を閉めながら言う。


「湯場まで宿らしくなってきたね」


「前は?」


「奪い合い」


 その一言に、フィオナは少しだけ笑った。奪い合いではなく順番になる。それだけで、働く側も客も、少しだけ息がしやすい。


 湯場の順番表は、ただの木札だった。けれど、今夜の朝霧亭では、誰かを先に温めるための大事な道具になっていた。

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