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第23話 寝つきの悪い御者宿

 同じ街道でも、どこで眠れなかったかには土地の癖が出る。


 昼過ぎ、荷馬を預けたまま朝霧亭へ転がり込むように入ってきた御者がいた。三十を少し越えたくらいの男で、肩の筋は強いのに目だけが薄く濁っている。眠れていない人の目だ。


「部屋、空いてるか」


 声は太いが、張りがない。長く起きた身体を無理に立てている声だった。


 ユナが帳場から部屋の鍵を取る前に、フィオナは男の手元を見た。手綱だこが深い。爪の間に黒い泥。袖口には乾いた藁。街道の宿を転々としている御者だろう。だが、単なる長旅だけでは説明しにくい荒れ方がある。


「前の宿では眠れませんでしたか」


 男は少し驚いたように目を細めた。


「……あんた、見ただけで言うのか」


「違っていたら謝ります」


「違わねえよ」


 そのまま男は、荷を置くより先に椅子へ腰を落とした。膝が少しだけ笑っている。サラが後ろから見て、無言で湯を用意しに行く。


「前の宿、馬屋が近すぎた」


 男はぼそりと言った。


「夜通し咳くやつがいて、つられて馬も落ち着かねえ。あげく、隣の御者が酒で騒ぐ。寝たのか寝てないのか分からねえまま朝だ」


 なるほど、とフィオナは思う。原因は身体だけではない。音、匂い、他人の疲れ。御者宿特有の不眠だ。


 朝霧亭にも完全な静けさはない。だが、少なくとも馬屋と寝台の距離は取れる。


「今日は裏手にしましょう」


 フィオナは言う。


「馬の気配は少し届きますが、咳と酒の声は遠いです」


 男は苦笑した。


「ずいぶん具体的だな」


「眠れなかった理由が具体的なので」


 部屋へ通してから、フィオナは藁の匂いが残る外套を戸口の近くへ移した。寝台のすぐ脇に置くと、身体がまだ道の上にある気になって眠りが浅くなる。代わりに、濡れ布を一枚だけ置いて鼻の近くの乾きを和らげる。


 湯を持ってきたサラが男の顔を見て言う。


「こりゃ寝ないと事故る顔だね」


「だから来たんだろうよ」


 男はぶっきらぼうに返したが、怒気はない。疲れ切った人間は、棘を立てる余力も減る。


 名前はロウといった。街道を北から南へ荷を運ぶ途中で、二晩続けて眠り損ねたらしい。休めない御者は、客だけでなく馬まで危うくする。フィオナはそれを前の御者客ベルトで学んでいた。


「眠り草は使いますか」


「きつい匂いは嫌いだ」


「では湯と、重めの毛布を一枚」


「毛布で変わるのか」


「変わる人はいます」


 ロウは半信半疑の顔をしたが、拒まなかった。


 夕方、彼が寝台へ入る前に、ミアが馬屋側の戸を確認し、ユナが食堂の遅い客を少し表寄りへ寄せた。誰か一人の工夫ではなく、宿全体のちょっとした調整で睡眠の質は変わる。


 深夜の見回りで、ロウはようやく眠りに落ちていた。肩の力が抜け、呼吸も一定だ。御者は眠れない夜を仕事の一部として諦めがちだが、諦めさせない宿であることに意味がある。


 朝、ロウは食堂で椀を持ちながら言った。


「久しぶりに、馬の夢じゃない夢を見た」


「いい夢でしたか」


「覚えてねえ。でも、嫌じゃなかった」


 それで十分だとフィオナは思った。嫌な夢でない夜は、次の一日を持たせる。


 ロウが残していったのは、街道沿いの御者宿の噂だった。北の宿は騒がしい。南の宿は毛布が薄い。西の分かれ道の宿は馬は休めるが人は眠れない。朝霧亭が勝てるのは豪華さではなく、疲れの種類を分けて扱うことだ。


 フィオナはその話を紙へまとめた。どこで誰が眠れないか。街道の不眠にも地図がある。


 宿の仕事は、客を迎えることだけではない。どこで眠りを落とした人を、ここで拾い直すかを知ることでもある。

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