第22話 眠り草を惜しむ朝
足りない物は、足りないと分かった瞬間から使い方が変わる。
朝霧亭の香草棚の前で、ユナが小瓶を光にかざしていた。眠り草の残りは底に薄く沈む程度。まだ空ではないが、何にでも使ってよい量ではない。
「今夜あと三人分かな」
ユナが言う。
「四人には足りない?」
「薄くすればね。でも、薄くして全員眠れない方がつらい」
その計算は正しい。足りない時ほど、全員に半端に回すのがいちばん悪い。
フィオナは棚を見上げながら、昨夜の記録紙を思い返した。深く眠れていないのは、巡礼娘ルシェ、湯番の老人、長旅の親子、それから新しく入った車曳きの男。だが原因は同じではない。
「同じ草を同じだけ使うのをやめましょう」
言うと、ユナが片眉を上げた。
「今までも大体そうじゃない?」
「大体、では足りないです」
眠り草を必要とするのは、香りそのものより「もう休んでいい」と身体へ教えるきっかけが欲しい人間だ。温めれば済む客、音を落とせば眠る客、手元の不安を解けば落ち着く客にまで同じ草を使うのは無駄が多い。
サラが桶を抱えて通り過ぎながら言う。
「節約じゃなくて、見極めってことね」
「はい」
「言い方を変えれば、同じだよ」
「働く側の気持ちは違います」
そう返すと、サラは少しだけ口元を緩めた。足りない足りないと聞かされるより、まだ使い方があると言われる方が持ちこたえやすい。
フィオナは小さな仕分け札を三つ作った。香りが必要、温度が必要、手元の安心が必要。乱暴なくくりだが、何もないよりはずっとましだ。
最初に試したのはルシェだった。彼女には香りを薄く、代わりに荷袋を置く場所と寝台脇の布を整える。次に湯番の老人へは、少量の香草湯より足先を温める湯桶を優先。親子には、香りより部屋の静けさと毛布の重ね方を使う。
夕方、眠り草を使ったのは結局二人だけだった。しかも量は今までより少ない。それでも、寝つきは悪くなかった。
エナがそのやり方を見て言う。
「神殿は、草が足りなくなると『足りない』しか言わなくなった」
「本当は、その前にできることがあるんです」
「分かってる人が抜けると、そこが飛ぶのね」
神殿のことを考えると、胸の内に冷たいものが残る。だが今は、その冷たさに引っ張られすぎてはいけない。朝霧亭の夜を持たせる手が先だ。
ミアは札を見て首を傾げた。
「人って、こんなふうに分けて考えていいの?」
「本当はもっと細かいです」
フィオナは答える。
「でも、足りない時は細かさより先に、間違え方を減らす方が大事です」
その夜、眠り草の瓶はほんの少ししか減らなかった。残量が増えたわけではない。それでも、明日まで持つというだけで、宿の空気は軽くなる。
足りるかどうかは、ただの数の問題ではない。明日の客が一人増えたらどうするか、夜番が一人寝込んだらどうするか、冷え込みが強くなったら誰を先に温めるか。そういう先回りが頭の中にあるだけで、人は棚の前で途方に暮れずに済む。ユナが小瓶を棚へ戻す手つきも、朝より少し落ち着いて見えた。
足りない物を惜しむのは卑しいことではない。惜しみ方に知恵があれば、それは明日を伸ばす行為になる。
フィオナは香草棚の前で、新しい札を作り足した。残量。使い道。代わりに使えた手。そういう小さな記録が、次の夜を少しだけましにする。
眠り草を惜しむ朝は、足りないことを嘆く朝ではなかった。足りない中でも、まだ守れる眠りを数える朝だった。




