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第20話 先に眠る者を決める夜

 順番を決めるのは、たいてい気持ちのいい仕事ではない。


 その夜は特にそうだった。雨脚が夕方から強くなり、街道の客が予定外に二組増えた。濡れた外套、泥のついた荷、冷えた足。朝霧亭は満室ではないが、余裕のある夜でもなかった。


 しかも火の回りが悪い。薪が湿り、湯の上がりが遅い。こういう夜は、皆が同時に休みたくなる。そして誰かが休めない。


 若女将が帳場で指を止めた。栗色の髪をきっちり結い上げた横顔は、こういう夜ほど余計な迷いを表へ出さない。


「部屋は足りる。でも湯と人手が足りない」


 サラはすぐに頷いた。短く切った黒髪の先が、振り向いた拍子に頬へ触れた。


「先に決めないと、全員が中途半端になる」


 フィオナは食堂を見回した。濡れて震える旅商人夫婦。咳をこらえる巡礼娘ルシェ。熱の戻りかけた子を抱くヘレン。裏では夜番明けのミアが目をこすっている。淡い茶色の髪を後ろでひとまとめにしたミアの顔色は悪く、眠気をごまかす余裕もない。誰も「自分を先に」とは言わない。言わないからこそ、決める側が必要になる。


「ヘレンさん親子を先に部屋へ」


 フィオナは言った。


「子どもは冷えが早いです」


「次は?」


「ルシェさん。そのあと商人夫婦」


 若女将が眉を上げる。


「夜番のミアは?」


 そこがいちばん苦いところだった。


「湯だけ先に。仮眠はその次です」


 ミア本人が、かえって素直に頷いた。


「うん、今日は客が先でいい」


 その言い方が、フィオナには少し辛かった。働く側が、客を先にするのに慣れすぎている。


 サラは短く指示を飛ばし、ユナが部屋割りを変え、フィオナは湯の順番を整える。誰を先に温め、誰を先に横にするか。宿の夜は、善意ではなく手順で回る。


 ヘレンの娘ノアを先に寝かせたあと、ルシェには湯だけでなく、濡れた袋を乾いた布で包み直す場所を作った。持ち物が落ち着かないと、あの娘は眠れない。


 商人夫婦には食堂脇の部屋を回した。人の気配がある方が、雨の夜は安心する客もいる。


 最後に、ミアの番が来た頃には、火の勢いが少しだけ戻っていた。フィオナはぬるめの湯を運びながら、喉の奥にひりつくものを感じる。順番は正しい。だが、正しい順番がいつも優しいわけではない。


「ごめんね」


 思わず漏れた言葉に、ミアが笑った。


「フィオナさん、そういう顔しないで。前は、そもそも順番もなかったから」


 その一言は重かった。順番があるだけ、今はまだましなのだ。だが、ましであることと、痛くないことは別だった。フィオナの指先には、湯桶の取っ手から移った熱より、ミアを後ろへ回した感触の方が長く残った。


 夜半、雨が少し弱まった頃、サラが裏口の柱にもたれて言った。


「今日みたいな夜、嫌いじゃない」


「忙しいのにですか」


「忙しいのは嫌い。でも、誰を先に守るかがはっきり見える夜は、やることが分かる」


 サラらしい言い方だった。感傷ではなく、仕事としての言葉。それでもフィオナの胸にはまっすぐ届いた。


 若女将は空の鍋を抱えながらため息をつく。細い肩に鍋の重みが乗るたび、今夜の借りが目に見える形になる。


「全部足りないけど、全部足りないなりに回った」


「はい」


「その代わり、明日へ借りてるね」


 それも事実だ。今夜を越えるたび、翌朝へ借りが積まれる。だからこそ、明日の朝に返せる形を残さなければならない。


 フィオナは帳場の端に、小さな紙を置いた。今夜の順番と、その理由。熱、冷え、年齢、夜番明け、荷の有無。たった数行だが、次に似た夜が来た時、迷いを少し減らせる。


 宿は、眠らせる場所であると同時に、先に眠る者を決める場所でもある。残酷に聞こえるが、それを誰かが担わなければ、結局はもっと弱い順に倒れていく。


 雨の音を聞きながら、フィオナはようやく自分も椅子に腰を下ろした。眠るのはまだ先だ。それでも、今夜はただ混乱した夜ではなかった。守る順番を、ちゃんと選べた夜だった。


 ただ、選ばれなかった側の疲れが消えたわけではない。明日の朝、ミアの足取りがいつもより重ければ、その重さの一部は今夜の判断が持っていく。宿は助けた分だけ、別の形の疲れを抱える。フィオナは濡れた窓を見つめながら、そのことだけは忘れまいと胸の内で言い聞かせた。

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