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第1話 街道沿いの灯り

 療養宿《朝霧亭》の裏口は、客に見せるための場所ではない。


 荷馬車の軋みが夜更けまで残る荷捌き場。湯を替えたばかりの桶が積まれ、香草を煮出したあとの匂いと、湿った薪の匂いが一緒くたになって漂う。表の玄関に回れば、もっと柔らかな灯りと香の匂いがしただろう。だが夜番が使うのはいつだってこちら側だ。


 その裏口で、サラは一人、宿帳ではなく働き手の顔色を見ていた。


 夜番責任者の仕事は、見回りと鍵の管理だけではない。湯の番が足りているか、遅く着いた旅人をどの部屋へ通すか、夜のうちに熱を上げた客がいないか、明け方の台所の火を誰に任せるか。何より、今夜の働き手が朝まで倒れずに持つかどうか。それを読むのが仕事だった。


 だから、街道の先からふらつきながら歩いてくる少女を見た時も、サラは先に「厄介そうだ」と思った。


 薄い外套。歩幅の狭さ。風に押されるたびにわずかに傾く肩。蜂蜜色の長い髪は整えられているのに、裾は石の埃で灰色に汚れている。追剥に遭った旅人の崩れ方ではない。もっと疲れ切った、人前ではまだ形を保とうとしていた者の崩れ方だ。


 少女は裏口の灯りまで来たところで、ようやく人の気配に気づいたように顔を上げた。淡い灰青の目が、眩しさに少し細くなる。その顔色を見て、サラは舌打ちを飲み込む。目の焦点は合っている。歩けもする。だが朝までは持たない。


「宿を探してるのか」


 声をかけると、少女は一瞬だけ肩を強張らせた。警戒というより、もうそれに反応する力まで少なくなっている反応だった。


「……もし、空いている部屋があるなら」


 声は小さい。けれど耳に届かないほどではない。育ちの良い言い方だ、とサラは思う。そこがまた面倒だった。良いところの娘ほど、後ろに誰かがいることがある。


「金は」


 少女は口をつぐんだ。答えなくても分かる。十分ではないのだろう。


 サラはため息をつき、改めて相手を見た。小柄な体つき。荷も少ない。首筋から肩へかけて力が入り切っている。呼吸は浅く、寒さだけではなく、ずっと緊張を引きずってきた人間の息だ。香草に慣れた鼻には、それ以外の匂いも分かる。古い香油と祈祷布の乾いた匂い。神殿勤めか何かだろうか。


「一晩だけなら空けられる」


 そう言った瞬間、少女の目がわずかに揺れた。安堵だが、すぐに引っ込む。安堵してしまうのが申し訳ないとでも思っているような顔だった。


「ただし、明日の朝に話を聞く。倒れられるのが一番困る」


「倒れません」


「今にも倒れそうな顔で言うな」


 少女はそこで初めて少しだけ困ったように黙った。気の強い子ではないらしい。だが、反論すべきところでは口を閉じる。そこは悪くなかった。


「名前」


「フィオナ、です」


「私はサラ。こっちは裏口だ。客として泊めるんじゃない。今夜だけ、空いてる小部屋を使わせる」


 フィオナは小さく頭を下げた。下げ方まで丁寧だ。そういうところだけ見ると、宿の裏手や夜番詰所の空気にまるで似合わない。


 だが、歩かせてみるともっと分かる。階段を三段上がるだけで足に遅れが出る。踏みしめる音が軽い。軽いのに、重い。力がない体が、気力だけで前に出ている時の足音だった。


 裏口の板戸を開けると、内側から湯気と香草の匂いが流れた。フィオナのまぶたがほんの少しだけ緩む。その反応を見て、サラは肩越しに言った。


「湯はぬるいかもしれない。今夜は客が多かった」


「十分です」


 十分。そう答える人間は、たいてい十分な状態から遠い。


 通路を歩きながら、サラは手早く状況を整理した。空いているのは裏手の二畳半の小部屋。普段は付き添いの者か、夜明け前の仮眠に使う場所だ。寝台は狭い。だが外で倒れられるよりはましだ。問題は、今日の夜番がそれだけで回るかだった。


 回らない。


 正確には、回ってはいるが削れた状態でしか回っていない。湯番は二人いるはずが一人欠け、夜半に交代するはずだったミアは施療室への手伝いが長引いている。帳場の爺さんは咳を隠しきれていない。若女将見習いのユナまで夜更けに駆り出している時点で、余裕など最初からない。


 だからこそ、見知らぬ少女を拾う余裕など本当はないのだが、目の前で倒れられる方がもっと面倒だった。


 小部屋の前まで来て、サラは戸を開けた。狭い。だが布団は乾いている。夜風の入る隙間も少ない。


「ここを使え」


 フィオナは戸口に立ったまま、布団を見た。視線が布の重なり方へ滑り、次に窓の隙間、壁際の火鉢、その横の水差しへ移る。客が初めて部屋に入る時の見方とは違う、とサラは思った。部屋の値踏みではなく、眠れるかどうかを見ている目だった。


「……この部屋、夜明け前に冷えますか」


 思わずサラは眉を上げた。


「冷える。東側だからな」


「火鉢を、壁際ではなく足元寄りに置いてもいいですか。少しだけ」


「火事にするなら追い出す」


「しません」


 言い方は弱いのに、そこだけ妙に即答だった。


 サラは火鉢を少しずらした。フィオナも自分の荷を置き、布団の端を整える。慣れた手つきではないが、雑でもない。寝る人間のことを考えて布を触る手だった。


「神殿の人間か」


 サラが何気なく聞くと、フィオナの手が止まった。止まったのは一瞬だけだが、十分だった。


「……そうでした」


 過去形で返ってくる答えは厄介だ。詳しく聞けば事情があるのだろう。だが今夜は、事情を掘るより先に寝かせた方がいい。


「今夜は休め。話は朝だ」


 戸を閉めかけた時、フィオナが低く言った。


「サラさん」


「なんだ」


「この宿、眠れていない人が多いですね」


 その言葉に、サラは無意識に足を止めた。


「……何を見た」


「見た、というより」


 フィオナは言葉を探すように息をついた。弱っているくせに、その目だけは妙に澄んでいる。


「匂いと、足音と、呼吸で分かります。今すぐ倒れるわけじゃない。でも、このままだと誰かが先に崩れます」


 ずいぶん勝手なことを言う、とサラは思った。だが否定し切れないのが腹立たしい。実際、今夜の夜番は綱渡りだ。ミアも限界に近いし、自分だって足の裏の鈍い痛みを無視している。


「朝まで持てば十分だ」


 そう返して戸を閉めたが、その言葉が自分への言い聞かせでもあることはサラ自身が一番よく知っていた。


 通路へ戻ると、奥の台所から小さな足音が駆けてきた。栗色の三つ編みを跳ねさせたユナが、空の湯桶を抱えている。


「サラさん、裏の小部屋、誰か入れたの?」


「一晩だけだ」


「また拾ったの?」


「言い方が悪い」


 ユナは口を尖らせたが、すぐに声を落とした。


「ミアさん、さっきまたふらついてた。座らせたら怒るし、でもこのままだと危ない」


 やはり来たか、とサラは思う。危ないのは最初から分かっていた。ただ分かっていても、代わりの足がない。


 そして、さっきのフィオナの一言が嫌に耳へ残る。


 眠れていない人が多い。


 当たり前のことだ。宿の夜はいつも忙しい。けれど今夜は、その当たり前が、少し別の角度から見えた。朝まで持てば十分だと思っていたが、朝まで持たない誰かがもう一人増えたら、この宿の夜は本当に止まる。


 サラは湯桶を奪うように受け取り、短く言った。


「ユナ、ミアを座らせておけ。無理に歩かせるな。私が行く」


「でも湯番が」


「分かってる」


 全部分かっていて、全部足りない。それでも夜はまだ長い。


 小部屋の戸の向こうでは、追放されたばかりの見習い聖女が、たぶん初めて少しだけ暖かい空気を吸っている。役に立つかどうかは知らない。だが、もし本当にあの目が人の疲れを読むのだとしたら。


 そんな考えを、サラはすぐに打ち消した。期待は足元を掬う。夜番の人間が最初に覚えるのはそれだ。


 それでもその夜、サラはミアの詰所へ向かいながら、無意識に一度だけ小部屋の戸を振り返っていた。

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