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第16話 薄い粥の湯気

 疲れた人間は、腹が減っていることに気づくのが遅い。


 その日の朝、朝霧亭の裏口でユナが鍋をのぞき込んで眉をひそめていた。米が少ない。菜っ葉も少ない。何より、働き手に回せる分が薄い。


 客へ出す粥を削るわけにはいかない。だから削られるのは、いつも裏の分になる。


「また薄いね」


 ルド婆さんが言った。


「文句を言うくらいなら増やす方法を言ってください」


 ユナは言い返したが、いつもの勢いが少し足りない。寝不足の朝の声だ。


 フィオナは鍋の湯気に手をかざした。香りが弱い。薄い粥は胃に入っても、身体に「休んでいい」とまでは言ってくれない。けれど、何もないよりましだ。


「先に働く人へ回しましょう」


 言うと、ユナが顔を上げた。


「客より?」


「客の分は削りません。そのうえで、裏の分を同じに割らない方がいいです」


 サラが湯桶を置いてこちらを見る。


「順番を変えるってことか」


「はい。夜を超えた人、これから火と水を触る人、帳場に立つ人。その順で」


 働く側が倒れれば、客の朝も崩れる。フィオナにとっては当たり前の理屈だったが、宿では当たり前にできないことでもある。


 ユナは鍋杓子を握ったまま少し迷い、それから言った。


「嫌われるかもよ」


「倒れてから配るよりは嫌われません」


 結局、最初の椀はサラへ、次が湯番の老人へ、三つ目が帳場に立つユナへ回った。ミアには少し遅れて、寝起きの身体に合わせて温度を落とした粥を出す。


 量は少ない。だが、何も入らないまま働き始めるよりはずっといい。


 サラは椀を受け取る時、少しだけ怪訝な顔をした。


「私が先でいいの」


「先に火を触る人が倒れると危ないです」


 説明すると、サラは文句を飲み込んだ。納得したからではなく、理屈が通っていたからだろう。そういう納得のされ方は、フィオナにとって悪くない。


 裏口の椅子に座ったミアは、両手で椀を包み込みながら言った。


「前の宿だと、働く人のご飯は最後だった」


「ここも同じだったよ」


 ユナが苦く笑う。


「たぶん今までは」


 その言い方に、朝霧亭が少しだけ変わり始めているのを感じた。大きな改革ではない。薄い粥を、先に誰へ出すか。その程度の変化だ。けれど、仕事場というのは案外そういう順番で空気が変わる。


 昼前、街道から戻った小荷運びの少年が、空の腹のまま椅子へ崩れそうになった。サラがとっさに支え、ユナが残っていた粥を温め直す。働く側を先に整える意味が、その場で形になった。


「危なかった」


 ユナが呟くと、フィオナは首を振った。


「危なかった、で済んだんです」


 今までは済まなかったのかもしれない。そう思うと、鍋の底に残る粥の薄ささえ少し違って見えた。


 夕方、エナが帳場へ来て、空になった鍋を見た。


「今日、裏の顔が少し違う」


「粥の順番を変えました」


「それだけで?」


「それだけだから効くこともあります」


 フィオナは鍋底に付いた粥の膜を洗いながら答えた。奇跡というには小さい。だが、働く人を先に持たせる工夫は、宿の夜そのものを支える。


 薄い粥の湯気は頼りない。けれど、その頼りなさを誰に先に渡すかで、夜の折れ方は変わる。


 フィオナはそのことを、神殿ではなく朝霧亭で身につけ始めていた。

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