第15話 眠りやすい部屋の条件
同じ寝台でも、眠れる部屋と眠れない部屋がある。
その違いを大げさに言えば奇跡の有無になるのかもしれないが、実際にはもっと地味だ。風がどこから入るか。灯りがどれだけ残るか。布の重さが身体に合っているか。夜の宿は、そういう細い条件で生きたり死んだりする。
朝霧亭でも、同じように「なぜか眠れる部屋」と「なぜか眠れない部屋」が分かれ始めていた。
フィオナは客の出入りを見ながら、その差を頭の中で並べていく。二階の角部屋は壁際が冷える。裏手の低い部屋は外の物音が遠い。食堂に近い部屋は安心感がある代わりに、遅くまで人の気配が残る。
「部屋まで気にするの?」
ユナが呆れ半分で言った。
「客は寝に来るんですよね」
「そりゃそうだけど」
「なら、寝やすい部屋と寝にくい部屋を分けた方がいいです」
サラは桶を運びながら、短く鼻を鳴らした。
「そんな贅沢な余裕、うちにある?」
「贅沢じゃありません」
フィオナは答える。
「寝にくい部屋へ、眠れない客を入れないだけです」
それは新しい設備の話ではなかった。いまある部屋を、どう割り当てるかの話だ。
その日の夕方、巡礼帰りの中年夫婦が二組入り、さらに熱の下がりきらない若者が一人やって来た。部屋数に余裕はない。だが、誰をどこへ入れるかで夜の騒ぎ方は変わる。
フィオナは若者を裏手の低い部屋へ案内した。夫婦の一組は階段の昇り降りが辛そうだったので、一階の食堂脇へ。もう一組は疲れてはいるが会話が落ち着いていて、多少物音のある部屋でも眠れそうだった。
ルド婆さんがそれを見て言う。
「部屋を薬みたいに使う気かい」
「薬ほど確実ではありません」
「でも、効くんだろ」
フィオナは少し笑った。
「少しは」
夕食後、若者は咳き込みながらも早めに静かになった。食堂脇の夫婦は、湯気の匂いと人の気配がある方が安心したらしく、明かりを落としてすぐ眠りへ入った。逆に、二階へ上がった方は夜更けまで囁き声が続いたが、それは不安というより旅の疲れをほどく会話に聞こえた。
宿に必要なのは、全員を同じように眠らせることではない。それぞれが眠りやすい条件へ近づけることだ。フィオナはそれを、今いる客たちの息遣いで学び直していた。
エナもその晩、少し長く眠れた。白布を外した額の痣はまだ残っているが、目の下の青さは薄い。朝食の席で、彼女は初めて自分から湯の配合に口を出した。
「昨日の香草、あの組み合わせでいい。けど、重い毛布の客には少し薄くして」
「身体が温まっていると、香りが強すぎますか」
「そう。眠る前に『効かされる』感じが出る」
フィオナはすぐに紙へ書き留めた。眠りは人によって違う。その違いを記しておくのは、奇跡ではなく仕事だ。
若女将は帳場からその様子を見て、ぽつりと言う。
「最近、うちが宿っぽくなってきた」
「今まで宿じゃなかったみたいな言い方ですね」
「寝床貸して、ご飯出して、朝送り出してたよ。でも、それだけだった」
ユナの言葉は重かった。朝霧亭は確かに宿だった。けれど、疲れを置いていける場所ではなかった。今は少しずつ、それが変わってきている。
夜、フィオナは空き部屋の戸口に立ち、壁の隙間から入る風を手の甲で確かめた。どの部屋を誰に回すか。その順番一つで、翌朝の顔色が違う。
追放された時、フィオナは自分の役目が終わったと思った。だが、役目は神殿の中だけにあるものではなかった。眠りやすい部屋を選ぶことも、温度と匂いを整えることも、誰かを朝まで持たせる仕事になる。
そして、その仕事は案外、好きだった。
部屋を一つ見回るごとに、宿の輪郭が少しだけ手になじむ。ここはもう、雨風を避けるだけの建物ではない。少なくともフィオナにとっては、眠りを作る場所になりつつあった。




