第12話 白布を巻いた客
昼前に入ってきた客は、宿泊客というより負傷者に見えた。
頭を覆うように白布を巻き、外套の襟を高く立てた若い女。歩けないほどではないが、片足に余計な力が入っている。入口で立ち止まったまま、宿札を見る前に、湯場の位置を確かめようとする目つきをした。
フィオナは、その癖を知っていた。痛みを抱えている人間は、寝台や食事より先に、どこで休めるかを探す。
「おひとりですか」
声をかけると、女は一瞬だけ視線を鋭くした。そのあとで、構えを解くように小さくうなずく。
「部屋が空いているなら」
「空いています。階段は使えますか」
女は答えなかった。代わりに足元の重心がほんの少し崩れた。答えはそれで十分だった。
ユナがすぐに察して、二階ではなく裏手の低い部屋へ案内を変える。若女将見習いのそういう切り替えは早い。
部屋へ入ると、女は巻いていた白布を少し緩めた。こめかみの横に青い痣が見える。打撲だけではない。寝不足と緊張で、頬までこわばっていた。
「温めますか。それとも先に横になりますか」
フィオナが尋ねると、女は初めて少しだけ驚いた顔をした。
「……熱い湯は、今はいい」
その返答で、フィオナは痛みの種類を絞った。身体を温めたい客なら、もっとすぐに頷く。今避けたいのは、痛みそのものより“湯でほどけると気が抜ける”ことなのだろう。
「では、ぬるめの足湯だけ用意します」
「そこまでしてもらわなくても」
「してもらわないと休めない顔をしています」
言ってから、少しだけ言い過ぎたかと思った。だが女は怒らなかった。怒る気力がないのかもしれない。
白布の結び方に、フィオナは見覚えがあった。神殿の施療補助が急ぎで巻く時の癖だ。丁寧だが、左右が完全には揃わない。忙しさの中で何度も同じ処置をした手つき。
「神殿にいましたか」
女の肩が止まる。
「……どうして」
「布の結び目です」
女は少しだけ苦い顔をした。
「いたわ。施療補助として。でも今は違う」
それだけで十分だった。追われた人間か、置いていかれた人間か、まだ分からない。ただ、神殿から離れて休みに来る人間が出たこと自体が、フィオナには重かった。
足湯を運んでくると、女は椅子に浅く座ったまましばらく動かなかった。浸けたら最後、張っていた糸が切れると分かっている顔だ。
「大丈夫です。寝たら起こします」
「信用できる保証は?」
細い声だったが、鋭さは残っていた。
「ありません」
フィオナは正直に答えた。
「だから、先に名前を言います。私はフィオナ。見習い聖女でした。いまは朝霧亭の手伝いです」
女は少し黙り、やがて息を吐いた。
「……エナ」
それが今、名乗れる最小限なのだろう。
足先を湯へ浸した瞬間、エナの眉間の力が緩んだ。完全には解けない。ただ、戦う姿勢のままではなくなった。
フィオナは部屋の窓を少しだけ開けた。空気を入れ替えすぎると寒い。閉め切ると匂いがこもる。眠る部屋は、そのどちらにも寄り過ぎない方がいい。
エナは白布の端を指でいじりながら呟いた。
「神殿は今、休む場所じゃない」
短い言葉だった。だが、それ以上の説明はいらなかった。
働き手が休めない場所は、いずれ客も休めなくなる。フィオナはそれを、身をもって知っている。
「ここも立派ではありません」
言いながら、寝台の皺を伸ばす。
「でも、少なくとも眠ってはいけないとは言いません」
エナはその言葉を聞いて、初めて真正面からフィオナを見た。年はそう離れていないはずなのに、その目にはずっと長い夜をくぐった人間の色があった。
「……それだけで、十分な夜もあるのね」
フィオナは頷く。十分でない夜の方が多いからこそ、十分な夜を作る仕事に価値がある。
部屋を出る時、サラが廊下で待っていた。
「その客、神殿の匂いがした」
「しました」
「面倒を連れてきた?」
「疲れを連れてきた、の間違いかもしれません」
サラは少し考えるように黙ったあと、短く言った。
「なら、今夜は寝かせろ」
そう言われて、フィオナは少しだけ救われた気がした。厄介者かもしれない相手を、まず休ませる。朝霧亭が宿であることを、サラはそういう一言で守っている。
その日の夕方、エナは自分からもう一泊すると告げた。理由は言わなかったが、理由を言わなくても泊まれること自体が、彼女には必要だったのだと思う。
宿は、事情を全部吐かせる場所ではない。休むために、いくつか黙ったままでいられる場所でもある。
フィオナは帳場の端で、そのことを改めて覚えた。




