第114話 札のない夜の不満
待ち札を持たない相手へ細い道を残しても、不満そのものが消えるわけではない。
石段の角で待っていた洗い場男は、半椀を受け取る前にぼそりと言った。『札がある人は、やっぱり違うんでしょう』。責める調子ではない。諦めと羨みが混ざった声だった。その声の薄さが、かえって胸に刺さる。
フィオナは否定しなかった。違いはある。だからこそ札を増やしていない。差があることをなかったことにすれば、今度は別の形で相手を傷つける。
「違います。でも、切ってはいません」
そう答えて半椀を渡すと、男はしばらく椀の熱だけを見ていた。白布でも待ち札でもない夜に、受け取れるのはたったこれだけだ。だが、その「これだけ」を残しておくことが、完全に閉ざさないためには必要だった。
宿へ戻ったあと、ユナは帳面を閉じながら小さく言った。
「差があるって、言う方がきついですね」
その通りだった。平等に見せる方が楽だ。だが、この宿が守っているのは見え方ではなく、崩れない運用だ。差があるまま残る道もある。その現実を飲み込んでなお来られる夜を作ることが、今の朝霧亭には求められているのだろう。
洗い場男の『やっぱり違うんでしょう』という声には、恨みより先に疲れがにじんでいた。白布や待ち札を持つ人を羨む気持ちは自然だ。羨みが出るほど、今ある細い道に差があるということでもある。その差を認めながら、それでも完全には切らない。その半端な優しさを守るのが、いまの朝霧亭にはいちばん難しい。
半椀を渡したあとの男の手は、椀の熱をなかなか離さなかった。ほんの少しでも受け取れる物があるなら、夜の冷たさはましになる。だから待ち札のない人向けの道も捨てられないのだと、フィオナはその手つきでまた確かめた。差があることを隠さず、それでも切らない。そのぎりぎりに宿の今がある。
洗い場男の不満は強い言葉にはならなかったが、椀を持つ指先にじんわり残っていた。札を持つ人と持たない人に差があるのは事実だ。その差を認めたうえで、それでも夜を完全には閉じない。そういう中途半端な優しさは、きれいには見えない。だが、きれいに見せることを優先すると、今度は守れる夜まで崩れる。
フィオナは半椀を渡したあと、石段の角へ残る雨じみを見た。待ち札のない人の道はいつも薄く、天気ひとつで危うくなる。だから不満が出るのも当然だ。それでも、その薄い道があるから、完全に外で倒れずに済む夜がある。宿が残してきたのは平等な入り口ではなく、崩れ方を少しだけ浅くする細い隙間なのだと、洗い場男の肩の落ち方が教えていた。
ユナが『差があるって言う方がきつい』と呟いたあと、フィオナはその言葉を長く反芻した。きつい。たしかにそうだ。けれど、差がないふりをする方があとで深く傷つくことも、もう知っている。ここへ来て守っているのは、平等な見え方ではなく、崩れない実際だ。その現実を人の痛みごと持つのが、今の朝霧亭の仕事なのだろう。
男が椀を持つ手を離せないでいる間、石段の角には冷えた湿気が薄く溜まっていた。待ち札のある人とない人の差は、こういう場所の冷たさとしても現れる。だからフィオナは、差を認めながらも半椀の熱や口で渡す条件を軽く扱えなかった。札がない夜ほど、残せる物の小ささがそのまま宿の誠実さになるからだ。
ユナもあとで『差があるまま残すって、かなり面倒ですね』と疲れた声で言った。面倒だ。だが、その面倒さを飛ばして平等な顔だけ作れば、次はもっと深い所で誰かが落ちる。石段の角に立つ人の肩が、少しでも帰り道へ向くなら、その面倒ごと引き受ける意味はある。フィオナはそう自分に言い聞かせながら、椀に残った薄い湯気を最後まで見送った。




