第11話 湯気の向こうの赤い目
夜の宿で、いちばん先に壊れるのは大声を出す客ではない。静かに座ったまま、返事だけきちんとする者の方が危ういことがある。
朝霧亭の食堂の隅に、その夜の親子はいた。母親は旅埃のついた外套を脱ぎもせず、椅子の端に浅く腰かけている。膝の上に座る女の子は、眠そうなのに眠れていない目をしていた。まぶたは落ちそうなくらい重いのに、肩だけが細かくこわばっている。
フィオナは湯を運ぶ途中で、その子の目の赤さに気づいた。泣いたあとの赤さではない。眠れないまま夜気にさらされ、目の縁だけが熱を持っている色だ。
「お水より、少し温かいものの方がいいかもしれません」
控えめに声をかけると、母親は反射的に身構えた。追われる側の人間がする顔だった。礼を言う前に断られるかもしれない、とフィオナは思う。
「余計なお世話でしたら、すみません。ただ、喉が乾いたまま寝台へ行くと、余計に眠りにくくなるので」
母親は娘の額に手を当て、それからようやく小さくうなずいた。
「……少しだけ、お願いします」
湯に蜂蜜を一滴落としただけの薄い飲み物を持っていくと、女の子は両手で椀を抱えた。まだ幼いのに、こぼすまいとして指にきゅっと力が入っている。焦って飲むより、持っているだけで落ち着く客もいる。フィオナは急がせなかった。
サラが後ろから様子を見ていた。
「客を診るなら、倒れる寸前のやつからにして」
「この子は、まだ倒れていないだけです」
「そういう言い方をするあたり、本当に神殿育ちだね」
棘のようでいて、否定だけではない言い方だった。サラも同じ顔を見てきたのだろう。
フィオナは女の子の足元を見る。旅靴の紐は一度ほどいて結び直した跡があり、泥が片側にだけ厚い。長く歩いたうえ、途中で抱き上げられた時間がある足だ。母親の袖口も擦り切れている。二人とも、きちんと身なりを整えようとして失敗した人間の匂いがした。
「お名前をうかがってもいいですか」
母親は少し迷ってから答えた。
「娘はノア。私はヘレンです」
「ノアちゃん、寝る前に少しだけ足を温めてもいい?」
ノアは母親の顔を見てから、こくりとうなずいた。
湯番の桶から少しぬるめの湯を取り、足首だけ浸す。熱すぎる湯は逆に目を覚ます。じわりと温めて、身体に「もう動かなくていい」と教えるくらいがちょうどいい。
ノアの肩が、ほんの少し下がった。
「今日は、どこから来たんですか」
ヘレンはすぐには答えなかった。宿では、旅路を聞くことが傷を聞くことになる場合がある。フィオナはそれ以上踏み込まない。だが、ヘレンの方がぽつりとこぼした。
「橋が閉じて……予定していた宿に着けませんでした。昼のうちに休めると思っていたのに」
その一言で十分だった。眠れない夜の理由は、夜にあるのではない。昼の予定が崩れた時点で、もう夜は始まっている。
ユナが奥から毛布を持ってきた。
「これ、表の部屋の余り。ちょっと古いけど、ないよりいいでしょ」
若女将見習いの声は明るいが、物を差し出す時だけ雑さが消える。そういうところが、フィオナは好きだった。
ヘレンが礼を言おうとして、喉を詰まらせるように息を止めた。大げさな親切に慣れていないのだろう。あるいは、礼を言うだけで泣きそうになる夜なのかもしれない。
ノアはようやく、椀の中身を少しずつ飲みはじめた。まぶたが落ちるたび、また開こうとする。その反復が弱くなるまで、フィオナは椅子を引かなかった。
「……眠ってしまっても大丈夫です」
そう声をかけると、ヘレンの方が先に目を閉じそうな顔をした。
眠らせる相手は、いつも一人とは限らない。
その夜、フィオナは寝台の布を整えながら、神殿の仮眠室を思い出した。固くて冷たく、眠るためではなく倒れる前に横たえるための部屋。朝霧亭はまだ粗末だが、ここには眠っていいという空気がある。
ノアが寝入った頃、ヘレンの肩もようやく落ちた。サラが壁際から小さく息を吐く。
「派手な奇跡はないのに、そういうのは上手いね」
「奇跡ではなくて、順番です」
「順番で眠れるなら、世の中もっと静かだよ」
「静かじゃないから、順番が要るんです」
返すと、サラは笑うでもなく鼻で息を抜いた。その表情が少しだけやわらかかったので、フィオナは胸の内で小さく安堵した。
働き手に認められることと、客が眠ることは別の出来事だ。けれど、その二つが少しずつ重なっていく時、宿はただ泊まる場所ではなくなる。
今夜は、そういう最初の夜だった。




