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第108話 教えてくれない夜

入口までしか教えない線は、守るための物だが、守られない側には時に冷たく見える。


 御者宿の若い手は、また深い夜に当たった。丸印をどう見ればいいのか、匂いの濁りをどう読むのか、知りたい顔でフィオナを見た。だがフィオナは、そこで先へは渡さなかった。


「そこから先は、こちらで見ます」


 静かにそう言うと、若い手の目にわずかな苛立ちが走る。任せてもらえない。信じてもらえていない。そう見えるのも無理はなかった。線を守ることには、こういう冷えた空気がついて回る。


 エダが間に入り、低く言った。


「任せないんじゃない。抱えさせないんだよ」


 その一言で、若い手はようやく目を伏せた。納得したというより、分かった振りをやめた顔だった。そこまでで十分だとフィオナは思った。教えない夜も、必要な仕事なのだ。


 宿へ戻る道で、フィオナの足も少し重かった。正しいだけでは足りない。正しい線を、相手の痛みごと引き受ける覚悟が要る。その重さをまだ自分も学びきっていないのだと、夜風が教えてきた。


 エダの『抱えさせないんだよ』という言葉を聞いた若い手の顔には、少しだけ悔しさも混じっていた。役に立ちたいのに止められる。その痛みを消すことはできない。だからこそ、フィオナは帰り道で自分の胸まで少し重くなっているのを自覚した。線を守る仕事は、正しいだけでは終わらない。相手の前向きさを半歩引かせる痛みまで、こちらが持たなければいけない。


 それでも、そこを曖昧にして教えすぎれば、若い手はきっと次の夜に抱え込む。真面目な人ほど、その先で先に崩れる。それを避けるための冷たさなら、宿の側が引き受けるしかない。教えてくれない夜は、実は教えないことで相手を守る夜でもあるのだと、フィオナは自分へ何度も言い聞かせていた。


 エダの言葉で若い手が目を伏せたあと、御者宿の空気はしばらく重かった。役に立ちたいのに先を止められる。その痛みは、追放された夜のフィオナ自身にもどこか似ている。だからこそ、ここで曖昧に『もう少し先も見ていい』とは言えなかった。線を守ることは、ときどき相手の前向きさに冷たい影を落とす。それでも、そこで止めなければ次の夜に相手の方が先に折れる。


 帰り道、夜気が頬に当たるたびフィオナの胸も少しざらついた。正しいと分かっていても、教えてくれない側に立つのは楽ではない。けれど、朝霧亭がこれまで積んできたのは、全部を渡すための手順ではなかったはずだ。抱え込みすぎず、それでも今夜を持たせるための入口だけを残す。その思いを忘れないために、フィオナは手の中の香草包みを強く握り直した。


 宿へ戻ると、サラは一目でその空気を読んだらしく、何も聞かずに白湯をひと椀寄こした。黒髪を耳へかける横顔はいつも通りだったが、『線を引く夜は後味が悪いね』とだけ低く言った。その言い方に少し救われた。教えてくれない夜の重さは、きっと一人で抱えるものではない。


 若い手が『分かりました』と言った声には、まだ少しだけ棘が残っていた。完全に納得したわけではない。むしろ納得しきれないまま、今夜は引いたという方が近い。そういう半端な引き方をさせるのも、線を守る側の仕事だとフィオナは思った。教えすぎない夜は、相手を満足させる夜ではない。相手が抱え込む前に、こちらが先に嫌われる覚悟を持つ夜なのだ。


 エダがそのあと、若い手へ椀を洗わせながら『止められるうちが花だよ』とぼそりと言ったのもよかった。止めることは信用していない証ではなく、まだ潰したくない証だ。そういう言い方が御者宿の方にも残っていけば、朝霧亭のやり方は少しずつ別の場所の言葉になるのかもしれない。フィオナはその場で口を挟まず、ただそのやり取りの温度を覚えておいた。


 宿へ戻ると、サラは表情を変えずに『冷えた顔してるね』とだけ言った。線を守る側も冷える。そう見抜かれるだけで少し楽になる。守るために言わないこと、止めること、引かせること。それらの後味まで含めて共有できる仲間がいるなら、この先の摩擦もきっとまだ持てる。フィオナは白湯を飲み干しながら、ここへ来ての冷たさを一人ではなく宿で抱える形がようやく出来始めているのだと感じた。

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