第10話 仮の居場所
仮のものほど、言葉にしておかないとすぐ消える。
朝霧亭の裏廊下で、フィオナは小さな木札を受け取った。客札ではなく、働き手用の仮札だ。名前は細い字で書かれているだけで、立派なものではない。だが紐を通して首から下げると、それだけで身体の居場所が少しだけ定まる気がした。
「正式雇いじゃないから、勘違いしないでね」
若女将はそう言ったが、声は柔らかい。
「今日から一旬だけ、手伝い扱い。続けるかどうかは、そのあと決める」
「はい」
フィオナは深く頭を下げた。神殿では、記録から名前を消される側だった。ここでは、仮でも札に名前を書かれる。それだけで喉の奥が少し熱くなる。
ユナが横から覗き込んだ。
「似合うじゃん」
「木札がですか」
「そういう返しするから真面目すぎるって言われるんだよ」
笑い声の軽さに、裏廊下の空気が少しゆるむ。そういう役目をユナは自然に果たしている。だが、その軽さが仕事の重さの上に成り立っていることを、フィオナはもう知っていた。
その日の午後、ベルトの出立が決まった。御者の男はまだ疲れを残していたが、昨夜とは違う顔をしている。眠れた者の顔だ。荷袋を背負う手にも余計な震えがない。
「借りは返せねえが、助かった」
そう言って差し出されたのは、街道沿いの宿で使える乾燥香草の小袋だった。道中の宿泊所同士で融通し合う品らしい。
「強い香りじゃない。馬も嫌がらねえやつだ」
若女将が目を見開く。
「これ、今うちで一番ほしいやつ」
サラも何も言わなかったが、受け取る手が少しだけ早かった。客を一人持たせたことが、宿側にもちゃんと返ってくる。その実感は、フィオナにとって思っていた以上に大きい。
夕方、ミアは自分から仮眠の時間を申告した。ルド婆さんも、ぶつぶつ言いながら先に足を休めるようになった。小さな変化だ。だが、宿ではそういう変化ほど効く。
「お前が来てから、裏の揉め方が少し減った」
サラがぽつりとそう言ったのは、湯番の交代の直前だった。
「大げさです」
「大げさなら言わん」
それだけで十分だった。褒めるでもなく、情を見せるでもなく、仕事として認める言い方。フィオナはその言葉の方が、どんな慰めよりも嬉しかった。
ただ、嬉しいだけで済まないこともある。
日が落ちる頃、表門の方で小さなざわめきが起きた。神殿の使いではない。だが、施療院用の布と香油を急ぎで買いたいという走りの者が来たのだ。しかも品名が、フィオナのいた部署でよく動かしていたものと重なる。
「足りなくなったんだね」
ユナが小声で言う。
フィオナは何も答えなかった。答えられなかった。自分を切った場所が困っている。その事実は、痛みでもあり、証明でもある。
若女将は使いの男に、宿で余っている分は回せるが多くは出せないと伝えた。朝霧亭も余裕があるわけではない。誰かを助けるために、別の誰かを削るわけにはいかない。
その夜、フィオナは裏庭の仮眠場所を見回りながら、自分の木札を指でなぞった。仮の居場所。期限付きの札。けれど、何もないよりずっといい。明日も働く理由が、首元に軽くぶら下がっている。
追放された夜、自分の名前は閉じられたと思っていた。だが名前は、閉じられた場所から消えるだけで、別の場所でまた書かれることがあるのかもしれない。
夜風が香草棚を揺らす。乾いた葉の擦れる音を聞きながら、フィオナはようやく、明日もここへ立つ自分を少しだけ自然に想像できた。




