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第0話 追放の夜

 その夜、石段はよく冷えていた。


 神殿の裏門へ続く薄暗い階段の途中で、フィオナは一度だけ足を止めた。白い息が唇からほどけて、すぐに夜気へ溶ける。肩にかかる薄手の外套は、もともと夜更けの見回り用でしかなく、三月の風を防ぐには心もとない。蜂蜜色の長い髪が背で揺れるたびに、首筋の冷たさがはっきりした。


「もう下がっていいわ」


 背後でそう言ったのは、神殿付きの上級侍女だった。気の毒そうな顔をするだけ、まだましなのだろうとフィオナは思った。昼間、評議の間にいた者たちは、もっと露骨だった。失望か、苛立ちか、あるいは最初から大して期待していなかった者の冷たい安堵か。どれも見覚えがある表情だった。


 奇跡が弱い。見映えがしない。大広間での祈りに華がない。


 そういう言葉で、今日の午後、フィオナは切られた。


 正しく言うなら、切られたのは今日だが、見限られていたのはもっと前からだった。誰かを一度に大勢癒やせるわけでもない。大病をたちどころに退けるわけでもない。倒れた騎士を祝福の光で立ち上がらせることもできない。見習い聖女として与えられた役目はこなしてきたが、祭礼で歓声を集めるような奇跡を、一度も見せられなかった。


 けれど、誰かが眠れていないことなら分かった。


 夜明け前の施療室で、呼吸が浅い人。

 洗い場の隅で、足の指先まで冷えたまま立っている人。

 仮眠室の布に横たわっても、肩に力が入り切ったままの人。


 そういう人を見ると、匂いと熱が少しだけ違って感じられた。寝具を替えた方がいい、香草をもう少し薄く焚いた方がいい、夜番の順番を一つ後ろへずらした方がいい。派手でも美しくもないが、そうした小さな手当てのあとで、朝の顔つきが少しだけ楽になることをフィオナは知っていた。


 ただ、その変化は遅い。地味だ。そして大広間の評議では、まるで数にも入らない。


「……本当に、これで終わりなんですね」


 口に出してから、自分でも変な問いだと思った。終わりでなければ、裏門から夜の街道へ一人で出されるはずがない。


 侍女は視線を落としたまま、小さくうなずいた。


「見習いの記録は閉じられます。部屋の荷も、明日には別の者が整えるでしょう」


 記録という言葉に、フィオナの胸の奥が少しだけ痛んだ。仕事の結果として残るのは、立派な奇跡の回数でも、華やかな祈りの評判でもない。夜番が崩れなかったとか、洗い場の手が震えずに済んだとか、そういうことだったのに。それらは結局、誰の功にも数えられないまま消えるのだ。


「道中、お気をつけて」


 侍女は最後まで丁寧だった。だから余計に、これが本当に終わりなのだと分かった。


 裏門が閉まる音は、思っていたより乾いていた。鉄の掛け金が下りる音も、扉の向こうで人の気配が遠ざかる足音も、妙にはっきり聞こえた。フィオナはしばらく門を見上げていたが、やがて肩を縮めて街道へ向き直った。


 夜道は暗い。石畳の間に残った昼のぬくもりはとっくに抜けていて、靴の裏から冷たさが上がってくる。行く先を決めないまま歩くしかなかった。街へ戻るには門限があるし、神殿前の広場へ戻れば見張りに止められる。宿を取れるほど金もない。昼から何も食べていないせいで、腹の奥がじわじわと空っぽだった。


 しばらく進むうちに、街の灯りが背後へ下がり、代わりに街道脇の木々が黒い影になって迫ってきた。風が吹くたびに枝が擦れ、乾いた音を立てる。フィオナは外套の前を押さえ、息を整えようとした。


 だが、整わない。


 今日は昼の評議のあとから、ろくに座ってもいない。追放の沙汰が出るまで待たされ、部屋を明け渡し、持ち出せるものだけを抱え、最後に裏門まで歩かされた。足の裏はじんじん痛み、指先はかじかみ、まぶたの裏では白い部屋の光景がまだ消えない。


 ――眠れていない。


 ふと、そんな言葉が自分自身へ向いた。人を見る時と同じように、自分の呼吸が浅く、肩が下がり切っていないことに気づく。首筋に残る緊張。奥歯が無意識に噛みしめられている感覚。眠りを整える側だったくせに、自分のことになると、どうしてこんなにも鈍いのだろうと少し笑いたくなった。


 笑う余裕は長く続かなかった。


 次の一歩を出した時、膝が不意に抜けた。転ぶまいとして街道脇の杭へ手をつくが、指先にうまく力が入らない。冷えと空腹と寝不足が、まとめて身体の芯へ沈んできた。


「……だめ」


 小さくこぼした声は、誰にも届かない。


 フィオナはそのまま膝をつき、荒い石に手を押し当てた。石の冷たさが掌へ刺さる。ここで眠ってはいけない、と頭では分かるのに、身体はむしろその冷たさに身を預けたがっていた。


 その時だった。


 街道の先、緩やかに曲がる道の向こうに、灯りが見えた。揺れている。高い門灯ではなく、低い屋根の軒先に吊られた、宿の灯りのような色だった。ひとつだけではない。湯気のように淡くにじむ明かりが二つ、三つ、その奥にも並んでいる。


 誰かが起きている。

 湯があるかもしれない。

 せめて、壁にもたれて朝を待てる場所があるかもしれない。


 その考えだけで、足先にわずかな力が戻った。フィオナは手をついて立ち上がり、ふらつきながらも灯りの方を見た。まだ遠い。だが、何もない闇よりはずっと近い。


 追い出された夜に、自分から何かを選べるとしたら、今はあの灯りへ向かうことだけだった。


 フィオナは息を整え、外套を握り直し、街道の先の小さな明かりへ向かって歩き出した。

150話でいったん完結する予定です。既に書き終えていますので、ぜひ最後までお付き合いください。

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