第八話 蝶の羽ばたき
旅の途中、立ち寄った庵の焚き火が爆ぜる。
信虎は、光秀と幾度となく交わした問答を続ける。光秀の「この国を変えたい」という不遜なまでの志に、かつての己の若き日を重ね、あえて突き放すように問いかけた。
「十兵衛殿。貴殿は『法』を説くが、法とは強者が弱者を縛る鎖に過ぎぬ。わしがかつて学んだのは、人は恐怖でしか動かぬということだ。情や理で国が治まるなら、なぜ雪斎はあれほどまでに多くの血を流して今川を広げた?」
光秀は、揺らぐ火影を見つめたまま、静かに、しかし断固として答えた。
「恐怖は、主君が生きている間しか持ちませぬ。主が倒れれば、恐怖は即座に叛意へと裏返ります。」
信虎の眉が跳ねる。光秀はさらに踏み込んだ。
「氏親公が磨き、義元公が継がれた『今川仮名目録』は、まことに見事な法にございます。あれは、武士が恣意的に民を苦しめることを禁じ、裁判の筋道を立てた。つまり、『主君の気分』ではなく『道理』で国を動かすことを選んだのです」
光秀は、その要点が記されているであろう書付を取り出し、それを火の光にかざした。
「なれど、あくまで『今川という家』の法。隣国へ行けば、また別の法があり、別の正義がぶつかり合う。この不毛な衝突を終わらせるには、個々の家の都合を超えた、日ノ本という『器』そのものを律する、不変の秩序が必要なのです」
「雪斎殿は、今川家のために智を尽くした。なれど、私はこの乱世という病を根治するために智を尽くしたい。雪斎殿が『今川の安寧』を設計したのなら、私は『人の世の恒久』を設計したいのです」
光秀の語る言葉には、一種の狂気さえ混じる、高潔な理想が宿っていた。
信虎は、これほどまでの「大義」を掲げる男を、これまで見たことが無かった。雪斎の智謀が「深淵」だとすれば、光秀のそれは「天空」からすべてを見下ろすような、途方もない広がりを持っていた。
「カカッ……。雪斎は、今川という木を育てることに生涯を捧げた。だが貴殿は、森そのものの在り方を変えようというのか」
信虎は、自らの内にあった「武」への執着が、光秀の壮大な「智」によって洗い流されていくような感覚を覚えた。
「十兵衛殿。貴殿のその志は、もはや一介の浪人が抱くには重すぎる。……わしの名は、武田信虎。甲斐を追われ、今は義元の客分として駿府に身を寄せる、いわば『乱世の残滓』よ」
光秀の驚愕を制するように、信虎は一気に語りかける。
「駿府へ行け。義元は今、氏親公が遺し、雪斎が守った『法の種』を、天下という大地に植えようとしておる。貴殿の語る『大いなる理』を、あやつなら笑わずに聞き、形にしてみせるだろう。雪斎が死んで空いたあの男の隣に座れるのは、貴殿かもしれぬ」
信虎は立ち上がり、火の中に太い薪を投げ込んだ。
「義元に会え。そして、あやつの『今川の法』を、貴殿の『天下の道』へと塗り替えてみせよ」
光秀は、信虎の言葉を全身で受け止め、深々と頭を垂れた。
「信虎公……この十兵衛、必ずや御期待に応えてみせましょう」
夜が明け、信虎は京へ、光秀は駿府へ。
かつての暴君と、未来の変革者。二人の問答が産み落とした小さな火種は、やがて今川家の、そして日ノ本の運命を変えていくことになる。




