第六話 激励
駿府の門出。そこには、いつもの豪華な着物ではなく、質素ながらも動きやすい旅装束に身を包んだ武田信虎の姿があった。 傍らには数人の供回りのみ。かつて甲斐の国主として数万の将兵を率いた男の旅立ちとしては、あまりに静かなものであった。
見送りに立ったのは、今川義元ただ一人である。
「信虎殿、本当に行かれるのか。駿府に居れば、何不自由なく余の大業を特等席で眺められようものを」
義元の問いに、信虎は白髪の混じった眉を跳ね上げ、快活に笑った。
「カカッ、婿殿。座して待つには、わしは少々長生きしすぎた。貴殿が京へ上る道筋、このわしが先に諸国を巡り、その目で確かめてきてやろうというのだ。退屈しのぎには丁度良い」
信虎は馬の背に手をかけ、ふと真剣な眼差しで義元を見つめた。その目は、老いてなお、獲物を狙う猛獣の鋭さを失っていない。
「……婿殿。貴殿が氏真殿と糸殿に抱く夢、そして元康という麒麟への期待。それらすべてが結実する場所は、ここ駿府ではない。京の都だ。わしは一足先に洛中へ入り、貴殿が座るべき場の埃を払っておく」
信虎はニヤリと笑うと、馬に跨り、最後に義元へ向かって短く、だが重みのある言葉を投げかけた。
「婿殿……儂も年故、そう待たせて下さるな。貴殿の天下を、この目が黒いうちに拝ませていただくぞ」
それは、単なる挨拶ではなかった。自分を拾い、その器量を見せつけてきた者への、信虎なりの「督促」であり、最大級の激励であった。
「……承知した。信虎殿が京の酒を飲み干す前に、必ずや余が旗を洛中に立ててみせよう」
義元は鷹揚に頷き、去りゆく老虎の背中を、見えなくなるまで見送っていた。 信虎の旅立ちは、今川家がいよいよ駿河という枠を超え、日ノ本という舞台へ躍り出るための「号砲」のように感じられた。
義元は空を仰ぎ、独りごちた。
「信虎殿に急かされては、のんびりとはしていられぬ。……尾張侵攻の仕度を急がねばな」
信虎が京へ向かう風となり、義元の野心はさらに苛烈な熱を帯びて燃え上がろうとしていた。




