第五話 月夜
寺部城での元康の獅子奮迅の働きから数日。駿府の夜は、戦場の泥濘が嘘のように静まり返っていた。 義元は、庭園を望む月見櫓で、武田信虎と二人、静かに酒を酌み交わしていた。
「元康の働き、見事なものでしたな、婿殿」
信虎が、盃を干しながら切り出した。その目は、闇の中に浮かぶ松明の火のように鋭い。
「あれはもはや、ただの小倅ではない。己が牙の研ぎ方を知った、若き麒麟だ。だが……」
信虎は言葉を切り、母屋の方へ視線を向けた。そこからは、雅な笛の音が、力強くも澄んだ響きで聞こえてくる。義元の嫡男・氏真と、その正室・糸が過ごす館の灯りだ。
義元は笛の音に耳を傾けながら、慈しむように目を細めた。
「……信虎殿、あやつの笛を聞いたか。雪斎も申しておった。氏真の音には、人の心を静める徳があると。戦に勝つだけの武将なら、我が家臣にも、あの元康にも務まる。だが、天下を治めるのは『武』だけでは叶わぬ」
義元は盃を置き、確信に満ちた声で続けた。
「余が血を流して大地を均し、氏真がその上に雅なる花の都を築く。これこそが今川の、そして日ノ本の目指すべき姿よ。氏真はそのために、余とは違う器を持って生まれてきたのだ」
「ほう、随分な買い被りですな」 信虎が皮肉るが、義元の眼差しは揺るがない。
「それに、氏真には糸がおる。北条の血を引くあの娘は、聡明で胆力もある。氏真の優しさを補い、今川を裏から支える屋台骨となろう。あの二人が揃えば、余が成し得なかった『戦なき世』を現出させることができると信じておる」
信虎は、義元が嫡子夫妻に向ける「確信」に、ある種の神々しさと危うさを同時に感じていた。
「婿殿。貴方が氏真殿に託す夢、それが美しければ美しいほど、元康のような『泥の獣』は眩しさに目を焼かれましょうぞ。貴方が氏真殿を光の中に置くならば、元康を誰が繋ぎ止めるのか。血の繋がらぬ麒麟は、いつか光を食らう牙となりますぞ」
義元は豪快に笑い飛ばした。
「だからこその、元康への試練よ。あやつには泥を這い、血を浴びる苦しさを徹底的に教え込む。そうして『影の王』として鍛え上げ、余にとっては矛、氏真にとっては盾とする。元康もまた、余が愛する今川の宝よ。あやつは、氏真が築く美しい世界を守ることに、己の存在意義を見出すようになる」
義元は立ち上がり、月に向かって盃を掲げた。
「余が信長を討ち、京へ上る。それは氏真と糸に、最高の舞台を用意するための道行きよ。元康にはその先陣として、武功の誉れを与えてやる。すべては、今川の永劫なる繁栄のためよ」
信虎はその背中を見つめ、黙って酒を煽った。 母屋から響く笛の音に、糸が奏でる琴の音が重なった。 それは、義元が夢見る「平和な国」の予演のようであり、同時に、嵐の前の静けさの中へ消えてゆく儚い調べのようでもあった。
糸=早川殿です。




