第四話 初陣と試練
永禄元年。駿府・今川館。 義元は、居並ぶ重臣たちを下がらせ、元信と信虎の二人だけを御前に残した。その手には、織田方に寝返った三河・寺部城の報告書がある。
「元信よ。此度の寺部城攻め、今川の本隊は一兵も貸さぬ。其方と三河衆のみで、三日のうちに落としてみせよ」
静かな、しかし有無を言わせぬ響き。元信が言葉を失っていると、義元はゆっくりと元信の目の前に立った。その巨躯から放たれる威厳が、部屋の空気をひずませる。
「雪斎はこう言っていた。『元信は磨けば天下を射抜く矢となる。故に、安逸に浸らせるな。常に死線に置き、その魂を叩き鍛えよ』とな。元信……余は雪斎の言を信じている。其方は、余が描く天下の図において、最強の矛とならねばならぬ男だ」
義元は元信の顎を強く指で持ち上げ、その瞳を覗き込んだ。そこにあるのは冷酷さではなく、弟弟子を極限まで追い込む、狂気にも似た「期待」であった。
三河・寺部城。降りしきる雨は、松平勢の士気を削り、大地を底なしの沼に変えていた。
「殿、もう限界です! 兵糧もなく、矢も尽きかけております。今川へ援軍の要請を!」
叫ぶ鳥居元忠に対し、元信は雨に打たれながら、駿府で見た義元の眼光を思い出していた。
(……義元公は、見ておられる。私がここで膝を折る凡夫か、泥を食らってでも敵を噛み殺す獣か。援軍を乞えば、私は一生、あの方の影を歩むだけの駒で終わる)
元信の中で、恐怖が「矜持」へと変質していく。
「援軍など要らぬ! 義元公は我らに、三河武士の真価を天下に見せつける舞台を与えてくださったのだ。これほどの光栄があろうか!」
元信は自ら泥の中に膝をつき、兵たちと共に土嚢を運び、火薬を仕込んだ。その姿は、高貴な貴公子ではなく、地獄から這い上がってきた修羅のようであった。
火計、泥濘を逆手に取った夜襲。 寺部城が真っ赤な炎に包まれた時、元信は崩れ落ちる城門の向こうに、自分を試した義元の幻影を見た。 三河衆は、泥と返り血にまみれながら、かつてない高揚感に包まれていた。「自分たちは、あの今川義元に認められるほどの働きをしたのだ」という、過酷な試練を越えた者だけが持つ誇りである。
数日後、ボロボロの姿で帰還した元康を、義元は自ら出迎えた。
「……見事だ。実に見事だ、元信」
義元はその汚れた肩を、自身の豪華な袖が汚れるのも厭わず、力強く抱き寄せた。
「雪斎に見せてやりたかったぞ。其方は、雪斎と余が育てた最高傑作だ。もはや其方は、ただの客分ではない。……そうじゃ、其方の祖父、名将であった清康から一字もらい今日から元康を名乗るがよい」
義元は傍らにいた信虎に、勝ち誇ったような笑みを向けた。信虎は鼻を鳴らしながらも、元信の成長に確かな畏怖を感じていた。
「婿殿、これほどまでに可愛がっては、後の世が恐ろしいですな。この男、いつか貴方の座を脅かしかねませぬぞ」
義元は豪快に笑い飛ばした。
「構わぬ! 元康が余を越えるというなら、それもまた余の誉れよ。……だが元康、休む暇はないぞ。次は尾張だ。信長という若造が、余の庭を荒らしておる。これを狩る先鋒の大将、其方以外に誰が務まると思う?」
義元の期待は、もはや逃れられぬ巨大な抱擁となって元康を締め付ける。
「御意に……。この命、義元公の王道に捧げまする」
平伏する元康の心には、師の期待に応えたいという熱い忠誠心と、その期待がいつか自分を、あるいは今川家そのものを焼き尽くすのではないかという、昏い予感が同居していた。
寺部城初陣の前には元康に改名していたと思いますが話の流れで。




