第三十二話 難敵
木曽川の戦は、今川軍の勝利に終わったものの、その勝利の味は苦いものだった。一色軍を粉砕したはずの光秀の顔には、かつてないほどの警戒の色が浮かんでいた。
今川軍の仮本陣。義元の前で、光秀は戦況を報告する。
義元は黄金の扇子を弄びながら、傷だらけで帰還した勝家と、険しい表情の光秀を見比べた。
「勝家、大義であった。織田軍随一の名は伊達ではないな。……だが十兵衛、其方の顔は、勝利した将のそれではないな」
光秀は深く頭を垂れ、静かに、しかし重みのある声で告げた。
「義元公。我らは今日、勝利したのではなく、敗けなかっただけなのかもしれません」
「ほう、どういうことだ」
「義龍の背後に、戦場の理を完全に掌握し、敵味方の心理を盤上の駒のごとく操る者がおります。竹中半兵衛……かつて美濃にいた際、その才は聞き及んでおりましたが、これほどとは。」
光秀は、半兵衛が仕掛けた「十面埋伏」の精密さを義元に説いた。
「勝家殿の話からすれば半兵衛が敷いたのは十面埋伏、この策は、敵の進軍路を完全に読まねば成立しません。何よりも困難なのは、兵を複数の部隊に分け、一分の狂いもなく連動させる事にございます」
光秀は地図の上に、十の点(部隊)を円状に描いた。
「勝家殿のような猛将が目の前を通り過ぎる際、兵の一人でも殺気が生ずればすべてが露見します。半兵衛は、自軍の兵に『己が石や草木である』と信じ込ませるほどの、統率を敷いておりました。そして複数の部隊が、一度に攻め寄せるのではありません。一方が突けば、もう一方が引き、敵が反撃に転じれば三方から包む。この『打っては消える』波状攻撃の拍子を、戦場の喧騒の中で完璧に指揮するのは、並の将には到底不可能です」
次に光秀は、もし勝家がこの包囲を突破できていなければ、どうなっていたかを静かに解き明かした。
「最強の猛将であっても、空を斬る槍に力は宿りません。十面埋伏は、敵に『どこを叩けばよいか分からぬ』という混乱を植え付け、武勇を霧の中に霧散させます。本来ならば勝家殿の如き豪傑こそ、この策に嵌まれば最も脆い」
光秀は続ける。
「四方八方から湧き出る敵に対し、兵は『自分たちは底なしの沼に落ちた』と錯覚します。逃げ場があるように見えて、実はどこへ逃げても敵がいる。この絶望感こそが、数千の軍勢を戦わずして自壊させる、この策の恐ろしさにございます」
勝家も忌々しそうに吐き捨てた。
「認めるのは癪だが、あやつの術中にはまったのは確かだ。叩いても叩いても、湧いて出てきおった……」
義元は床几に腰掛け、北にそびえる稲葉山を仰ぎ見た。
「十兵衛。其方は、この美濃攻めが容易には終わらぬと言うのか」
「はい。義龍にも最早油断はないでしょう。さらに、半兵衛の知恵にございます。力で押せば兵を浪費し、策を弄すれば逆手に取られる。美濃を平らげるには、腰を据えて戦う必要がございます。……恐らく、数ヶ月、あるいは年単位の長丁場になりましょう」
「長丁場、か」 義元はそう呟くと、意外にも満足げな笑みを浮かべました。
「面白い。信長という狂気を飲み込んだ我が今川の前に、今度は義龍、半兵衛という壁が立ちはだかるか。……十兵衛、急ぐ必要はない。この美濃という毒を、じっくりと我が法の中に溶かし込んでくれようぞ」
ここまで読んでいただき誠に有難う御座います。
御評価いただければ幸いです。




