第三十一話 鬼神
木曽川のほとり、戦場は膠着していた。近江の六角義賢は国境で旗を翻しているものの、その軍勢に攻め入る気配がないことを、光秀は察していた。
「報! 国境を牽制していた六角軍、一斉に陣を払い、近江へと撤退を開始しました!」
西を見れば、つい先ほどまで翻っていた六角の「四ツ目結」の旗印が、示し合わせたかのように静かに消え去っていく。
「しまった……!」
光秀の額に一筋の汗が流れる。 六角が今川軍の一部を釘付けにし、引いたということは、一色軍に敗北を想定し策を立てた者がおり、策が成るまでの時間を十分に稼いだということ。
「岡部殿、敵に敗北を想定し、我らの全力の追撃を阻止した者がいるようです。……勝家殿が危うい。あそこには、義龍以上に厄介な『智恵者』が潜んでおります」
光秀は、元信から騎馬隊を借り受けると、砂塵を巻き上げて勝家の後を追った。
その頃、美濃の狭隘な谷地では、竹中半兵衛の「十面埋伏」が勝家を四方から締め付けていた。あらゆる方向から浴びせられる矢弾と、隙を突いては繰り出される美濃兵の槍。勝家軍は四肢を縛られた巨人のように喘いでいた。
「権六殿、最早これまで。降伏して一色の軍門に……」
安藤守就の勧告が響く中、勝家の脳裏には、清須城で向けられた、お市の方の静かな、しかし全てを託すような瞳が鮮烈に蘇った。
(信長様を失い、行き場を失ったあのお方を、儂は『今川の法』の中で守り抜くと誓ったのだ。ここで無様に朽ちれば、あのお方は、織田の血はどうなる!)
「おのれ……おのれぇい!!」
勝家の瞳が、血走った紅蓮に染まった。
「お市様の信頼に応えねばならぬのに……我が主、奇妙丸様の未来を背負うておるのに! こんな、こんな所で止まっとれるかぁぁぁ!!」
それは人の発する声ではなく、戦場を震わせる野獣の咆哮であった。勝家は愛槍を風車の如く振り回し、迫り来る三方の槍をまとめて叩き折ると、馬を敵兵目掛けて駆けさせた。
丘の上で指揮を執っていた半兵衛の顔から、余裕が消えた。 勝家は自ら矢面に立ち、傷を負いながらも、包囲網の最も厚い一角へと突っ込む。
「死にたくなければ道を空けよ! 邪魔する者は、この柴田権六が地獄へ連れて行くぞ!」
勇将の下に弱卒無し、主の凄絶な気迫に、一度は沈みかけた織田の遺臣たちが呼応した。
「権六様に続け! お市様のために! 織田の意地を見せよ!」
恐怖をかなぐり捨てた犬山勢が、一点に凝縮された楔となって、半兵衛の「檻」に亀裂を入れた。
「何という男か……武が策を凌駕するというのか!」
力ずくで十面埋伏の連動を断ち切った勝家は、自ら殿を務め元来た道を引き返した。
安藤守就が追撃しようとするのを、半兵衛は手で制止した。
「当初の目的は達しました。追わぬ方がよろしい。……あれはもはや、兵法で測れる軍勢ではございませぬ。人を動かすのは『理』だと思っておりましたが、あのように純粋な『情』が、これほどまでの武を成すとは」
半兵衛の瞳には、勝家という男が示した「執念」への深い関心が宿っていた。
光秀が率いる騎馬隊が到着したとき、目の前に現れたのは、返り血を浴び、肩で息をしながらも悠然と引き揚げてくる柴田勝家の一団であった。
「おお、十兵衛か」
勝家は光秀の姿を認めると、不敵な笑みを浮かべて鼻を鳴らした。
「案ずるな。美濃の者が下らん策を弄しおったが、力ずくで叩き潰してやったわ。何者か知らぬが、あんな小細工でこの儂が止まると思うてか!」
光秀はその傷だらけの勝家の姿を見て、ふっと口元を緩めた。
「……小細工が通じぬのが、柴田権六という男でしたな。しかし勝家殿、相手もなかなかの智恵者。今後の戦、油断はできませんぞ」
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