第三十話 美濃の意地
木曽川の畔で「逆挟撃」を受けた一色軍は、もはや軍としての体をなしていなかった。勝ちを確信していた義龍は、現実を受け入れられぬまま、土砂にまみれて北へと逃走する。
しかし、この一色軍の敗北を想定していた一人、美濃の知将・竹中半兵衛は、次なる布石を打ち終えていた。勝家が北へと突き進むその行く手、狭隘な地。そこには、一色軍の主力とは別に、静かに時を待つ二人の男がいた。
若き智将・竹中半兵衛と、その舅であり西美濃三人衆の一人、安藤守就。
「……やはり、こうなったか。義龍様は、今川義元という御方の底知れぬ深さを、見誤られた」
安藤守就が苦渋に満ちた声で呟くと、半兵衛は揺れる竹林を眺めながら静かに応じた。
「……父上、美濃の意地、せめてここで一度、今川の喉元に突き立てておきましょう。」
二人は事前に通じ合い、義龍の策を「敗北」まで予見した上で、敗走する義龍を救い、追撃する今川軍を叩くために、手飼いの精鋭二千を伏せていた。
木曽川沿いで軍を整える岡部元信と明智光秀は、勝利を確信しながらも、西の空に漂う不穏な気配を察知していた。
「十兵衛殿、見られよ。一色は去ったというのに国境付近、六角の旗印が動きを止めておる。牽制に過ぎぬのか、あるいは我らの横腹を突く機を窺っておるのか……」
岡部の言葉に、光秀は鋭い眼光を向けた。
「六角義賢は伝統を重んじる男。今の我らの隙を突く胆力があるかは疑問ですが。……元信殿、我らは深追いせず、六角の動向に備えましょう。」
一方、勝家は敗走する一色軍を猛追していた。
「義龍、逃さぬぞ! その首、亡き殿への手向けに差し出せ!」
柴田勝家率いる犬山勢は、崩れゆく一色軍を蹂躙しながら、敗走する義龍の背中を追って美濃の深奥へと突き進んだ。その勢いはまさに「猛虎」。血煙を上げ、泥を跳ね飛ばしながら突き進む勝家軍は、勝利の興奮に酔いしれていた。
勝家軍が美濃の起伏に富んだ地形、狭い谷道へと差し掛かったその時。 周囲の静寂が、突如として無数の法螺貝の音によって引き裂かれた。
「……掛かりましたな、勝家殿」
小高い丘の上で軍配を振るのは、竹中半兵衛。彼が敷いたのは、古の兵法にある「十面埋伏」であった。
前方の藪から、左右の崖上から、そして先ほど通り過ぎたはずの後方の泥濘から。 一色軍の敗残兵と思われていた者たちが、半兵衛の緻密な指揮の下、あらゆる方向から一斉に姿を現した。
「何っ、伏兵か! おのれ、まだこれほどの兵を隠していたか!」
勝家の咆哮も、今度は逆効果だった。半兵衛の兵たちは決して深追いせず、槍を突き出しては下がり、弓を射ては隠れ、勝家軍の勢いを削いでいく。進むことも退くこともままならず、犬山勢が、網にかかった蝶のように身動きを封じられていく。
半兵衛は、冷静に戦場を見下ろしながら呟いた。
「勝家殿、武勇だけではこの美濃は飲み込めませぬ。私はこの美濃の『意地』として、貴殿の足を止めさせていただきます」
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