第二十九話 挟撃
永禄三年十月。美濃・稲葉山城から出陣した一色義龍の軍勢は、その数八千。犬山からの報に駆け付けた今川軍は、名将・岡部元信と軍師・明智光秀が率いる六千。さらに一色の盟友・六角家が国境で圧をかけ、今川本隊の動きを封じるという、勝家の内応を信じる一色にとっては絶好の状況である。
義龍の策は冷徹であった。
「まず我が本隊が今川軍とぶつかり、あえて劣勢を装って美濃側へと引き寄せる。奴らが勝利を確信して川の半ばを渡り、深く入り込んだその瞬間、勝家の犬山勢が背後から退路を断ち、我らと共に一気にこれを飲み込むのだ」
木曽川を挟んで両軍が対峙すると、義龍は予定通り先鋒を突撃させ、わずかな交戦の後に「崩れ」を装って北へと引き始めた。
これを見た今川軍の岡部元信は、激しく軍配を振る。
「敵は崩れたぞ! この機を逃すな、美濃へ追い込め!」
光秀もまた馬を走らせ、六千の今川軍は我先にと木曽川を渡り、義龍が用意した舞台へと足を踏み入れた。
今川軍が木曽川の半ばを渡ったその時、犬山城の城門が轟音と共に開いた。
「者共、続け! 殿を討った今川の首、一つ残らず獲ってやろうぞ!」
柴田勝家率いる織田の精鋭たちが、凄まじい勢いで今川軍の背後へ襲いかかる。勝家が振るう大身槍が今川の旗印をなぎ倒し、兵たちは口々に叫んだ。
「勝家が寝返ったぞ!」「犬山勢が裏切った! 逃げよ、逃げよ!」
この「悲鳴」こそが、光秀が描いた台本であった。 岡部元信と光秀の六千は、勝家の攻撃に狼狽したふりをして、南西へと敗走を始める。
義龍はこれを見て、完全に勝利を確信した。
「今だ! 川の中で逃げ惑う岡部どもを、正面から叩き潰せ! 勝家、そのまま背後から追い込め!」
八千の美濃勢は、今川軍を殲滅すべく、追撃に移る。しかし、それは光秀が用意した死地への進撃であった。今川軍が十分な位置まで一色軍を引き付けた瞬間、光秀が軍配をさっと振った。
「……今です。勝家殿、鬼の顔をお見せなさい」
逃げていたはずの今川勢がピタリと足を止め、整然たる陣形で反転。それと同時に、亡き主君の仇を狙っていたはずの柴田勝家が、一色を狙う鬼へと姿を変えた。
「義龍! 貴様の如き姑息な迷い児に、織田の魂を売り渡すと思うたか!」
義龍の顔から血の気が引いた。正面で敗走していたはずの今川軍・岡部元信の精鋭たちが、光秀の合図一つでピタリと足を止め、一糸乱れぬ動きで槍衾を反転させた。美濃勢は、今や腰まで水に浸かった不安定な足場で、前後を鋼の壁に挟まれる形となった。
勝家軍は一色軍へ猛然と突撃を開始。正面からは岡部元信隊の槍衾と光秀隊の射撃、背後からは勝家の「鬼」の如き猛進。挟撃していたはずの八千の一色軍は、逆に挟撃され敗走を余儀なくされた。
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