第三話 老虎
義元が去った後の静寂を、乾いた笑い声が破った。
「……カカッ、相変わらずの良い面構えだ。婿殿の御前でこれほどまで見事に平伏せるのは、駿府広しといえど、三河の小倅、貴様くらいなものよ」
元信が顔を上げると、そこには深く刻まれた皺の間から、鋭い眼光を放つ老人が立っていた。 男の名は武田信虎。 かつて甲斐の荒ぶる山々を従え、今は義元の「師友」として駿府に身を寄せる甲斐の先代当主である。義元にとっては、雪斎が「知」の師ならば、この信虎は「武」と「統治の苛烈さ」を説く、いわば猛獣の教本のような存在であった。
「信虎様……。義元公の御気勢、雪斎様が御存命の頃より一層、凄まじくなったように感じます」
元信の問いに、信虎は悠然と、だがどこか懐かしむように頷いた。
「当然よ。あの男は今、背負う重みを、雪斎の死によって一人で引き受けねばならんのだ。見ておれ、これからの今川は、雪斎が築いた緻密な法を、義元の圧倒的な威光が塗り替えてゆく。これこそが、わしがかつて成し得なかった、真の『王』の姿よ」
信虎は楽しげに、義元が去った奥の間を見つめた。信虎にとって義元は、自分を追放した息子・晴信(信玄)とは対極にある、完成された貴種の王者であった。信虎はその道の行き着く先を、誰よりも期待していたのである。
信虎は腰を下ろすと、元信に鋭い視線を向けた。
「元信よ、婿殿は其方を高く買うておられる。今川の血を混ぜ、一門として取り込む。それは奴なりの、最大級の寵愛だ。……だが、気をつけろ。巨木が天に届けば届くほど、その影は濃くなり、根元の草は陽を失って枯れるもの。義元という眩しすぎる光に、三河の魂まで焼き潰されぬことだ」
信虎は元信の肩を、励ますように、あるいは試すように強く叩いた。
「わしは、婿殿がこの日ノ本を平らげる様を見届けたい。そのためには、其方のような若き枝が、この巨木を支えねばならん。精々、義元の為に、三河の意地を見せてみよ」
信虎は朗らかに笑い飛ばすと、風のように立ち去った。 義元の放つ「絶対的な支配」の熱量と、信虎が語る「道の危うさ」。二人の巨星の狭間で、元康は自らの立ち位置を改めて噛み締めていた。
(義元公の光を、支える……。だが、その光が強すぎる時、私は、三河はどうなるのだ)
気を抜くと元康と書きそうになります。




