第二十七話 刺客
一色義龍の焦燥は、ついに狂気へと変わった。美濃・稲葉山城の奥底、暗い情念に突き動かされた義龍は、闇に潜む刺客たちに命を下す。
「……あの女、胡蝶め。死んだ道三が信長にあてた『美濃譲り状』を、今なお後生大事に持っておろう」
義龍は血走った眼で、配下の刺客を見据えました。
「今や信長は死に、そんな紙切れには何の意味もない! だが……あの道三が、私を差し置いて、婿の信長に美濃を譲る、などというふざけた戯言が書かれたものがこの世に存在すること自体、腸が煮えくり返るのだ! 殺せ。胡蝶を殺して、その譲り状を奪って参れ!」
義龍の命令を受け、手練れの刺客たちが闇に紛れて国境を越え、濃姫が静かに祈りを捧げる尾張の菩提寺へと向かった。
月明かりの下、濃姫の庵を取り囲む黒い影。しかし、その影が踏み込んだ先に立っていたのは、数珠を持った尼僧ではなく、静かに腰を落とした一人の武士――明智光秀であった。
「やはり、このような手に出るか、高政(義龍)」
光秀はゆっくりと立ち上がった。刺客たちは光秀を侮り、一斉に斬りかかる。しかし、光秀は単なる知略の徒ではない。彼はかつて京にて、「京八流」を修めた剣の達人でもあった。
光秀の刀は、まるで月の光を切り裂くかのような速さと、流れるような円の動きを併せ持っていた。
「……遅い」
一太刀、二太刀。光秀が動くたびに、刺客たちはその太刀筋を見ることさえ叶わず、次々と地に伏していった。絶妙な間合いから放たれる京八流の必殺の剣は、瞬く間に刺客の集団を圧倒した。
最後に残された一人が腰を抜かし、後ずさりするのを見届けた光秀は、血を払って刀を鞘に収めた。
光秀は、震える刺客を鋭い眼光で射抜いた。
「お前一人、見逃してやる。美濃へ戻り、高政に伝えよ。『胡蝶には何の野心もない。あるのは、亡き夫と父への祈りだけだ。その静寂を乱す者は、今川の軍勢を待つまでもなく、この明智十兵衛が京八流の剣をもって、地獄へ案内して進ぜる』とな」
刺客は転がるようにして闇へと消えていった。光秀が庵の奥へ視線を向けると、濃姫は経を止め、ただ一言「……十兵衛、すまぬ」と静かに呟いた。
翌朝、事の次第を聞いた今川義元は、黄金の扇子をパシリと閉じた。
「余と同じ足利一門に連なる、一色家の者が女子に刺客だと……愚かな。義龍め、ついに越えてはならぬ一線を越えたか。……仏門に入った女子を殺めてまで、偽りの正統を守ろうとするなど、もはや『法』の埒外にある獣よ」
義元は傍らに控える光秀に命を下す。
「美濃を平らげる手筈を整えよ。譲り状などという紙切れではない。今川の圧倒的な『力』と『理』をもって、義龍の迷夢を断ち切ってくれよう!」
史実では斎藤高政は一色義龍と改名。親殺しを払拭し美濃支配を正当化するため土岐より家格が上の一色(母系血筋)を名乗った。




