第二十六話 新たな火種
尾張平定の一段落と見た義元は論功行賞を行った。広間に最初に呼び出されたのは、松平元康であった。義元は彼の長年の忍耐と、尾張侵攻戦で見せた「決死の働き」に報いた。
「元康よ。其方を正式な岡崎城主とし、その差配を委ねる。我が軍の中核として、いずれ来る上洛の先鋒を担え」
元康は深く平伏した。幼少期から過ごした駿府への感謝と、悲願であった故郷での真の自立。その瞳には、かつての「人質」の影はなく、一城の主としての覚悟が宿っていた。
そして客将扱いであった明智光秀に対し、義元は浪人の新規召し抱えとしては破格の待遇を用意した。
「十兵衛。其方の計略と、清須を無血で落とした弁舌、余の理想に欠かせぬ。先ずは五百貫で余に仕えよ」
光秀は静かに一礼した。浪人の身から、数万の軍勢を動かす巨大組織の脳髄へと至る最初の道。光秀が歩むべき道が、ついに定まった。
最後に降将である柴田勝家が歩み出た。義元は彼に、信長の遺児・奇妙丸を支える「武の柱」としての地位を与えた。
「勝家。其方にはお市を娶らせ、犬山城を任せる。信長の遺した牙を、余の法の中で存分に振るうが良い」
勝家は咆哮にも似た声で感謝の意を伝えた。彼にとって、お市の方を守り、信長の血を継ぐ奇妙丸の後見として生きる道は、主君への最高の供養となるのだ。
また、義元は自らの身代わりとなって散った忠臣・松井宗信の功を忘れなかった。その子に対し、加増の上で家督相続を認めた。この差配に、今川譜代の家臣たちは「義元公こそ真の主君」と涙し、新参・古参の垣根を超えた結束が生まれた。
論功行賞の裏で、光秀の従兄妹でありかつての主君の娘である濃姫(胡蝶)は、静かに表舞台から身を引いた。光秀は彼女の保護を願い出、義元もこれを認めたが、彼女が選んだのは再嫁でも権力でもなく、仏門への帰依であった。
「十兵衛、私はここで信長様の菩提を弔います。あの御方が駆け抜けたこの尾張で、その魂が安らぐまで……」
濃姫は、かつての「マムシの娘」としての鋭さを隠し、静かな祈りの日々に入った。
しかし、この「静寂」が、隣国・美濃の一色(斎藤)義龍に疑心暗鬼を生じさせた。
「光秀が今川の家臣となり、胡蝶がその庇護下にあるだと……? 義元め、いつでも『道三の仇討ち』という大義名分を掲げて、美濃へなだれ込んでくる気ではないのか!」
義龍にとって、今川軍に「斎藤家の正統(濃姫)」と「道三の側近(光秀)」が揃ったことは、自身の統治基盤を根底から揺るがす恐怖であった。義龍は家臣たちの内通を疑い、美濃国内で過酷な粛清と監視を始める。
義龍の疑心暗鬼は、西美濃三人衆(稲葉一鉄ら)との間にも溝を作り始めた。「次は我らが疑われる番か」――。義龍は、ただ鎮座する義元と、静かに祈る濃姫、そして光秀の影に怯えるようになったのだ。
帰蝶は創作的な名という説を採り、胡蝶としています。




