第二十三話 なくてはならぬもの
光秀を労う宴の中、光秀は、ふと思い出した。
「義元公。交渉の間、柴田殿の傍らにて、一言も発せず沈黙を貫いていた者がおりました。勝家殿が激昂し、私に刀を向けた時も、お市様が衝撃の提案をなされた時も、その男はただ泰然と座しておりました。しかし、交渉が成立し、勝家殿が降伏を誓ったその瞬間……その男は、実に穏やかに、すべてを見通したかのように微笑んだのです」
義元は黄金の扇子を止め、興味深げに眉を上げました。
「ほう。あの殺気渦巻く清須にあって、沈黙を守り、最後に笑った男か。名はなんと申す」
「……丹羽長秀。聞くところによれば、家中では『米五郎左』と呼ばれているとか」
「丹羽長秀……名は聞き及んでおるが」
光秀の隣にいた松平元康が静かに口を開いた。
「義元公、私も耳にしたことがございます。丹羽五郎左衛門長秀。米がいかなる料理にも合い、日々の暮らしに欠かせぬように、いかなる政務も、いかなる戦の差配も、器用に、そして完璧にこなすことからそう呼ばれているとか。信長殿が、柴田殿を『武の柱』とするならば、丹羽殿は『政の柱』として頼りにしていた男とか」
義元は、自身の顎を撫でながら思案に耽った。
「なるほど。派手な軍功よりも、組織を回すための『欠かせぬ存在』か。……十兵衛、その男は交渉中、一度も貴殿に語りかけようとはしなかったのか」
「はい。むしろ、私の説く『今川の理』が、いかにして織田の遺臣を救うかを、誰よりも早く理解していたように見えました。彼が沈黙していたのは、勝家殿が自ら答えを出すのを待っていたのでしょう。あの沈黙こそが、織田家中における彼の絶大な信頼の証にございましょう」
義元は、満足げに目を細めた。
「面白い。柴田勝家という猛将を『矛』とするならば、その米五郎左とやらは、今川が天下を統べるための『盾』となろう」
義元は、光秀を見て力強く言った。
「十兵衛、よくやった。貴殿が清須から持ち帰ったのは、三千の兵だけではない。今川の法を、さらに強固なものにするための『智恵』を持ち帰ったのだ。……米五郎左、丹羽長秀か。余の前でその微笑みをもう一度見せてもらおうではないか」
開城時、清須城から届けられた目録には、柴田勝家を筆頭に、丹羽長秀が整然とまとめた兵糧、武器、領地の詳細な記録が添えられていた。その寸分の狂いもない事務処理の美しさに、今川の家臣たちも驚嘆の声を上げた。
信長を支えた実務の天才が、今川の「理」と出会わんとしていた。




