第一話 雪斎の死
弘治元年(一五五五年)十一月。駿河の空は抜けるように青く、しかし吹き抜ける風には冬の鋭い刃が混じり始めていた。
駿府、臨済寺。
今川家の当主、今川治部大輔義元は、奥まった一室の前に立ち尽くしていた。その端正な顔立ちは、今や深い苦悩に縁取られている。
「……雪斎、入るぞ」
返答はない。義元が静かに襖を開けると、そこには、かつて「海道一の弓取り」の名を共に作り上げた老僧が、枯れ木のように横たわっていた。太原崇孚雪斎。今川の軍事、外交、そして義元の師として、その全てを差配してきた男の命の灯火が、今まさに消えようとしていた。
「義元か……」
かすかな、掠れた声であった。雪斎は目を開けぬまま、その気配だけで愛弟子を悟った。
「案ずるな。人は死ぬ。ただ、それだけのことよ」
「戯れ言を。貴様がいなくなって、誰がこの義元の背を押すのだ。甲相駿三国同盟も、織田との果てなき競り合いも、貴様の知略があってこそのものだろう」
義元は雪斎の枕元に腰を下ろした。公家文化を愛し、優雅に振る舞う義元であったが、この老僧の前でだけは、幼き頃の「芳菊丸」に戻ってしまう。
雪斎は、微かに口角を上げた。
「左様。私が、今川を強くしすぎたのかもしれぬな……。だが、義元。これからは、そなたが己の足で歩まねばならぬ。誰の言葉でもなく、そなた自身の『王道』を」
雪斎の手が、震えながら義元の衣を掴んだ。
「……尾張を見よ。織田の若造(信長)を、侮ってはならぬ。奴は、既存の理を壊す男だ。理を重んじるそなたにとって、最も相性の悪い相手となろう……」
「織田……。あの『大うつけ』か」
「うつけか、それとも麒麟か……。それを見極めるのも、当主の務めよ」
雪斎の呼吸が次第に浅くなっていく。義元はその手を強く握りしめた。雪斎がいなければ、義元は僧籍を離れることも、異母兄との家督争い「花倉の乱」に勝つことも、東海に覇を唱えることもできなかった。雪斎は義元の影であり、骨であり、魂そのものであった。
「義元よ……。駿河の海は、今日も青いか……」
「ああ、美しいぞ。貴様と守ったこの国は、どこまでも美しい」
「ならば……良し……」
その言葉を最後に、雪斎の指先から力が抜けた。室内に、静寂だけが満ちていく。
義元は、しばらくの間、亡き師の手を離さなかった。涙は流さない。それが、最強の軍師として逝った男への、唯一の礼儀だと心得ていた。
翌日。
喪に服す間もなく、義元の元には諸将が集まった。
義元は、雪斎が死んだことを告げた後、広間の奥から駿河の山々を望んだ。
(雪斎、見ておれ。貴様が育てたこの今川義元、必ずや京へ上り、天下に静謐をもたらしてみせる)
その目は、もはや迷える弟子のそれではなかった。
しかし、その五年後。雪斎が死の間際に警告した「尾張の若造」との邂逅が、桶狭間の雨の中で待ち受けていることを、この時の義元はまだ知る由もなかった。
雪斎の死。それは今川家にとっての動乱の幕開けでもあったのである。
義元公架空戦記です。
戦国架空戦記では大抵主人公サイドに参加する人物加入予定です。




