第十七話 清須への使者
義元は、新参の光秀をただ重用するのではなく、気位の高い今川の家臣たちを納得させるための「試練」を課そうとしていた。それは、信長という魂を失い、死に場所を求める織田遺臣の籠る清須城の三千を、言葉のみで屈服させるという、戦場よりも過酷な任務であった。
尾張をほぼ手中に収めた義元は、熱田の宿舎にて、居並ぶ重臣たちの前で光秀を呼び寄せた。
「十兵衛。清須には今、信長の狂気に殉じようとする三千の遺臣が籠っておる。奴らはもはや兵ではない、主のいない野犬だ。放っておけば、この尾張を焼き尽くす火種となろう」
義元は黄金の扇子をパチンと閉じ、冷徹な光を帯びた眼差しを光秀に向けた。
「余は無益な殺生を好まぬ。そこでだ……十兵衛、貴殿が単身で清須に入り、彼らを説いてみせよ。信虎殿と余の眼が確かであることを証明してみせよ」
今川の宿老たちから妬みと嘲りを含んだ視線が光秀に突き刺さる。しかし、光秀は微動だにせず、静かに頭を垂れた。
「謹んで、お受けいたしまする」
本陣を出る光秀に、松平元康が駆け寄った。
「明智殿、せめて平八郎を護衛に付けましょう。清須の者たちは、信長殿を失い、正気を失っております。言葉が通じる相手ではございませぬ」
光秀は足を止め、二人に穏やかな、しかし決然とした微笑みを向けた。
「元康殿、痛み入ります。なれど、武威で制しては『交渉』にはなりませぬ。私は、信長殿が遺した『尾張の未来』を語りに行くのです。……案じ召されるな」
光秀は護衛をすべて断り、一頭の馬と共に清須へ向った。 街道には、織田の敗残兵たちが潜み、藪の中から殺気立った視線が光秀を射抜く。いつ矢が飛んできてもおかしくない状況の中、光秀は背筋を伸ばし、まるで行楽に出かけるかのような静謐さを纏っていた。
城に近づくにつれ、空気は一層重苦しくなった。城壁には無数の「織田木瓜」の旗が、主を失い悲しげに雨風に揺れている。
「止まれ! それ以上進めば、命はないと思え!」
清須の大手門前の櫓から、無数の火縄銃が光秀に向けられた。
光秀は馬を降りると、ゆっくりと歩みを進め、銃口の森の真っ正面に立った。
「私は明智十兵衛光秀! 今川家の使者として、織田の勇士たちに言葉を届けに参った!」
「今川の回し者が何用か! 降伏などせん!近寄れば即座に射殺すぞ!」
守備兵の罵声に対し、光秀は腹の底から響く声で返した。
「否! 私は、信長公が守り抜いた尾張の誇りを、貴殿らが泥に塗れさせるのを止めに来たのだ! 門を開けよ。貴殿らの『志』をどこへ向けるべきか、私が示そう!」
光秀の放った「志」という言葉に、城兵たちが一瞬たじろいだ。 彼らは死ぬ覚悟はできていても、自分たちの死が「無意味」になることを最も恐れていたのだ。
沈黙が続いた後、重々しい音を立てて、清須城の大門がゆっくりと開かれた。 門の奥には柴田勝家、そして表情を失った織田信包を筆頭に、死を覚悟した三千の将兵が、待ち構えていた。
光秀は、その地獄のような「冥府の入り口」へと、扇子一つを手に、優雅ですらある足取りで踏み込んでいった。




