第十五話 桶狭間の閃光 四
火蓋の覆いによって湿り気から守られた火薬の爆発は、寸分違わず弾丸へと伝わり、その轟音は、織田勢の怒号を、そして今川勢の悲鳴を、一瞬にして飲み込んだ。
弾丸は、松井宗信の亡骸を乗り越え、太刀を振り下ろそうとしていた信長の心臓を正確に貫いた。
信長の動きが、糸が切れた人形のように止まる。振り上げた太刀がその手から零れ落ち、泥の中に虚しく突き刺さった。信長は、己の胸から溢れ出す鮮血を不思議そうに見つめ、それからゆっくりと、銃を構える光秀、そしてその前に立つ義元へと視線を移した。その目には、憎悪でも、驚愕でもなく、どこか「合点がいった」かのような、達観した色が宿っていた。
信長の瞳に、急激な速度で景色が流れる。 それは、彼が本来辿るはずだった、もう一つの数奇な運命。 桶狭間で義元を討ち、天下布武を掲げ、旧態依然とした中世を焼き尽くす未来。しかし、その覇道の終着点には、本能寺の赤々と燃える炎と、信じ続けていた男の裏切りが待っていた。
(……ああ。案外、こちらの方が、清々しいものよ)
信長は、口端に血を滲ませながら、満足げに、そしてどこか寂しげに微笑んだ。 「……是非に……及ばず……」 その呟きは、誰に届くこともなく、雨上がりの風に溶けていった。織田信長、享年二十七。歴史の転換点となるはずだった男は、泥まみれのまま、その壮大な夢を閉じた。
静寂が訪れた。信長の死を悟った織田の兵たちが、一人、また一人と武器を落とし、蜘蛛の子を散らすように敗走を始める。
義元は、ゆっくりと歩みを進めた。その足元には、無数の傷を負い、信長の突撃を食い止めて果てた松井宗信の亡骸があった。 義元は膝をつき、宗信の泥に汚れた手を強く握りしめた。
「宗信……。お前の命を懸けた寸刻が、余を救い、今川を繋いだ。……見事なり、松井宗信」
義元の声が、戦場に低く響く。彼は立ち上がり、未だ銃を手に立ち尽くす光秀を振り返った。
義元は、地に伏した信長の亡骸を見つめた。かつてこれほどまでに自分を追い詰めた男がいただろうか。自らの軍略を、狂気と執念だけで突き崩そうとした信長。その姿に、義元は一種の共感を覚えていた。
「十兵衛。……信虎殿が貴殿を遣わしていなければ、ここで地に伏していたのは、余の方であったかもしれぬな」
光秀が息を呑む。義元は、自身の勝利が決して必然ではなく、紙一重の天命であったことを認めたのだ。
「法を重んじ、秩序を説く余が、こやつのような狂気に屈する。歴史とは、時としてそうした不条理を選ぶものだ。……だが、今、余は生きている。ならば余は、あやつが持っていたあの凄まじき『熱』も、この冷徹な『法』の中に組み込まねばならぬ」
義元は、西の空を見上げた。
「大高城に伝令を飛ばせ! 元康に、信長の死を伝えよ。」
永禄三年五月十九日。 桶狭間は、織田信長の墓標となり、今川義元の真の王道が始まる聖地となった。
桶狭間の谷に、再び静かな雨が降り始める。 それは、散っていった兵たちの魂を鎮めるかのように、ただ静かに、戦場の血を洗い流していった。




