第十四話 桶狭間の閃光 三
信長の手勢は五百。信長にとって、もはや軍略はない。ここからは、かつて「稲生の戦い」で、実の弟・信勝を擁した千七百の軍勢に対し、わずか七百の兵で突っ込み、自ら先頭に立って敵を斬り伏せ、戦況をひっくり返した時に見せた、あの「死狂い(しにぐるい)」の再現であった。
「今、目の前におるのは、ただの肥大した公家よ! その喉首、食いちぎって清州へ帰るぞ!」
信長の咆哮に、織田の将兵たちは理性を捨てた。 「エイ、エイ、オー!」 その声は勝ち鬨ではなく、断末魔を力に変えた呪詛のように響き渡った。
「退くな! 今川の誇りを見せよ!」
これに対し、義元の周囲を固める親衛隊三百。彼らは駿府の繁栄を支えてきた選りすぐりの精鋭であり、義元の世という安寧を汚させまいとする、もう一つの死兵であった。
一度目の突撃、信長が自ら太刀を振るい、今川の第一列を突き崩す。 二度目。返り血を浴びて黒く光る信長の太刀が、親衛隊の壁を削り取っていく。
「……見事な狂気よ、信長」
輿の前に立ち、大太刀を構えた義元が不敵に笑う。その白塗りの顔には雨水が滴り、しかしその眼光は、荒れ狂う信長を捕らえて離さない。
本陣が恐慌に陥り、義元の輿が孤立しかけた三度目の突撃。その時、一人の男が立ち塞がった。
「御屋形様には指一本触れさせぬ! 松井宗信の意地、とくと見よ!」
宗信は、己が率いる二俣衆を鼓舞し、信長が送り込む死兵たちの波を真っ向から受け止めた。信長は、執拗に義元を狙って突撃を繰り返す。
織田軍の猛攻は苛烈を極めたが、宗信は返り血で真っ赤に染まりながらも、大太刀を振るって敵をなぎ倒し続けた。四度目の突撃では、信長の馬廻りが宗信の右腕を斬りつけたが、彼は声を上げることもなく、左手で刀を掴み直して敵の首を跳ね飛ばした。
「御屋形様! おさらばでござる! こやつは某が、地獄への道連れにいたす!」
松井宗信の奮戦により、信長本隊は五度にわたる突撃を全て阻まれた。信長は、目の前の巨木のような男の執念に、一瞬の焦燥を覚える。背後には元康が控えており、ここで時間を取られれば、逆に自分たちが挟み撃ちになるためだ。
「しぶといわ! 松井宗信、その首、天に返してやる!」
信長が自ら馬を飛ばし、宗信に斬りかかる。宗信は全身に数十の傷を負い、もはや自力で立つことすらままならない状態だったが、その瞳だけは衰えることなく義元を守る「壁」であり続けた。
この宗信の超人的な奮戦が、桶狭間の谷底に、奇跡のような「空白の時間」を生み出した。 織田軍が宗信とその手勢に手こずり、動きが止まった瞬間。
「……十兵衛、今だ」
義元の静かな声。 松井宗信が命を削って創り出したこのわずかな隙に、明智光秀が輿の陰から火縄銃を突き出した。それは、光秀自身が長年工夫を重ねてきた雨天射撃可能な銃であった。火蓋には精巧な覆いがあり、火縄は湿り気を防ぐ特別の樹脂で固められている。
「松井殿……貴殿の忠義、無駄にはいたしませぬ」
光秀の指が引き金にかかる。銃身の先には、宗信を斬り捨てようと太刀を振り上げた、無防備な信長の姿がはっきりと捉えられていた。
松井宗信は、背後で光秀が銃を構えたことを悟ると、満足げに微かな微笑を浮かべた。そして、最期の力を振り絞り、信長の足元へ縋り付くように倒れ込んだ。
「……今川の理、とくと……味わえ……」
銃声が轟く直前、宗信の命の火が消えた。そして桶狭間の谷間に、雷鳴よりも鋭い銃声が響き渡った。




