第十三話 桶狭間の閃光 二
「者共、一人でも多くの今川勢を山際へ引きずり出せ!」
佐々成政の咆哮は、降りしきる豪雨を裂いて響き渡った。 泥濘を蹴り上げ、織田の先鋒隊が今川軍の側面へと深く斬り込んでいく。それは戦術的な突破を目的としたものではなく、飢えた獣が巨大な獲物の脚を執拗に噛むような、死兵の動きであった。
遠江・三河の諸将たちは、目の前の功名心と、己の受持ちを完璧に守ろうとする本能から、じわじわと誘い出されていく。織田勢が反撃を受けては泥の中を逃げるようにして山の急斜面へと退くと、今川の兵たちは深追いせぬという鉄則を忘れ、霧の深い山中へと飲み込まれていった。
本陣の将兵たちは、その様子を薄笑いを浮かべて眺めていた。
「やはり尾張のうつけの奇襲はこの程度か。山際で散るのが関の山よ」
勝利を確信した弛緩が、霧のように陣中に広がっていく。義元が設けた黄金の輿を中心に、今川軍という巨大な歯車が、勝利という終着点へ向かって最後の回転を終えようとしていた。
しかし、その喧騒と安堵の只中で、明智光秀だけは凍りついたように動けずにいた。 彼の背筋を走る戦慄は、雨の冷たさとは異質の、死の予感であった。
(……おかしい。信長という男、これほど無策な捨て石を投じるだけで終わるはずがない)
光秀は雨の中に目を凝らした。 視界を遮る白い帳。奇襲部隊が引きつけて作った、今川陣形のわずかな歪み。追い打ちをかけるために兵が移動し、防衛線に生じた「空白の一点」。 今川の将兵たちの心に、「勝った」という確信が芽生えたその瞬間、戦場全体の緊張の糸が、プツリと音を立てて切れた。
「織田の奇襲を凌ぎ切ったぞ! あとは掃討するだけだ!」
誰かが勝ち鬨を上げた。勝利の予感に包まれた今川本陣。誰もが、目の前の必死な織田勢を追い詰めることに夢中になり、周囲を包む豪雨がもたらす、ある「静寂」の異常さに気づく者はいなかった。 それは、音が消えたのではない。 ――あらゆる殺気が一点に凝縮され、爆発を待つ真空のような静寂。
「義元公! あれは陽動にございます! 本命はまだ……!」
光秀が叫ぼうとした、その時だった。 誰もが「敵は山の上」と信じ込み、視線を斜面に向けていたその逆方向。 さらに深い霧と豪雨に包まれた「窪地の底」から、一切の声を上げぬ影の一団が、地底から這い出る亡霊のように浮かんできた。
統率された沈黙の軍。 先頭に立つのは、漆黒の当世具足を纏い、濡れた外套を黒い翼のように翻した男。 彼は一言も発さず、ただ義元の座す黄金の輿だけを、獲物を屠る鷹のような眼光で見据えている。 その瞳には、今川の五千の兵も、目の前の降りしきる雨も映っていない。ただ、「義元の首」だけを、冷徹に射抜いていた。
これこそが、本命の奇襲部隊――織田信長その人だった。




