第十二話 桶狭間の閃光 一
桶狭間山に張り詰めていた熱気が、一転して冷気に包まれた。空は墨を流したように暗転し、直後、視界を白く染めるほどの豪雨と雷鳴が今川本陣を襲う。
叩きつけるような雨は、地面をまたたく間に泥濘に変え、将兵たちの声をかき消した。わずか数歩先の旗印すら見えぬほどの雨足。その中、今川本陣の背後に位置する険しい山道に、泥まみれの軍勢が集結していた。
「者共、清州に残した妻子を思い出せ! 義元の首を獲らねば、我らに明日はないぞ!」
奇襲部隊の先陣を任された佐々成政、そして服部一忠が、抜刀して叫んだ。信長から「全力で義元の本陣をかき回せ」と厳命された、織田家の誇る精鋭。
彼らには、もはや退路はない。大高城には今川の先鋒・松平元康が陣取り、虎視眈々と織田の背後を狙っている。ここで義元を仕留め損なえば、袋の鼠として全滅する。その絶望が、千五百の兵を「死兵」へと変えていた。
義元の傍らに控える光秀は、雨粒を拭いながら周囲の気配を読み取ろうと必死に目を凝らす。
「……義元公、この雨は尋常ではございませぬ! 音も光も、そして兵たちの心さえも奪い去る。信長はこの瞬間に賭けているはず!」
しかし、黄金の輿の中に座す義元は、微動だにしない。降り注ぐ雨が輿の屋根を激しく叩く音を、まるで雅な調べでも聞くかのように静かに受け止めている。
「十兵衛……慌てるな。天が降らせる雨を、人が止めることはできぬ。なればこそ、この雨の中で己の『理』を保つ者こそが、天下を制するのだ」
義元は傍らに置いた刀の柄を静かに握りしめた。
「信長が来る。この雨の壁を突き破り、余の首という、ただ一つの灯火を目指してな」
光秀は、義元のその「動じぬ強さ」に敬服しつつも、身体が本能的な警告を発しているのを感じた。 大軍の弱点は、こうした異常事態における「情報の遮断」にある。五千の兵が周囲にいても、この雨の中では一人一人が孤立しているに等しい。
その時、雨音の向こう側から、馬の嘶きとも、人の怒号ともつかぬ異質な「地響き」が聞こえてきた。
「……義元公、来ます! 正面ではありませぬ、背後の崖上から!」
光秀が叫ぶと同時に、桶狭間山の急峻な斜面を、泥に塗れた一団が文字通り「降って」きた。
「突撃ィッ!」
一千五百の織田勢は、激しい雨でぬかるんだ斜面を、文字通り滑り落ちるようにして今川本陣へ突っ込んだ。 その戦いぶりは凄まじく、数に勝り、備えていた今川軍でもこの豪雨と猛攻に怯みを見せる。
「織田信長だ! 信長が攻めてきたぞ!」
今川の将兵たちが叫ぶ。先頭に立つ織田の将たちは、返り血を浴びながら、義元の黄金の輿を目指してがむしゃらに刀を振るった。
一撃、また一撃。 佐々成政が義元の親衛隊の一角を崩し、服部一忠の槍が今川の旗印をなぎ倒す。彼らの目的はただ一つ。義元自身を「戦いの渦中」に引きずり出すこと。
しかし、今川義元の親衛隊もまた、並の者たちではない。
「慌てるな! 敵は寡兵なり! 囲んで討ち取れ!」
義元の冷静な指揮のもと、三百の親衛隊を中心に鉄の結束で織田勢を押し戻し始める。数で勝る今川軍が徐々に態勢を立て直し、織田の一千五百を包囲し始めた。
「信長、やはり来たか。だが、この程度の数で余を討てると思うたか!」
白銀の闇の中で、今川の黄金と織田の深紅が、激しく衝突する。




